第114回 誠意を持って事にあたろう

先日、中山道の板橋宿へ街歩きのコース設定のために行って来ました。

町のほぼ中央を石神井川が流れ、両岸には桜の木が植えられており1000m余の散歩道が整備されて、素晴らしい景観をかもし出していました。土地の大部分が江戸時代の大名加賀家の下屋敷(21万坪)であったと言われて南千住にも大名屋敷が6箇所あったのを思い出しました。

隅田川岸から米倉屋敷・石川屋敷・宗屋敷・大関屋敷・加藤屋敷・池田屋敷と下や道沿いに続いていました。その内で、一番大きな石川日向守「伊勢亀山藩」の屋敷が1万1千坪で、現在の新開地といわれ、商店街名が《ジョイフル三ノ輪》の地域が石川邸の跡地です。区立南千住第一中学校前にある弁天湯は弁天池からとって命名されたと言われています。

板橋宿の加賀屋敷の21万坪がどれ程広いかお判りになったと思います。

三代将軍家光によって大名家の参勤交替制が定められてから四宿五街道の整備がなされました。四宿とは、品川宿・内藤新宿・板橋宿・千住宿をいい、五街道とは甲州街道・中山道・奥州道・日光道をいいます。そのうち、奥州道・日光街道の二街道が日本橋を起点として南千住コツ通りを大勢の旅人が通行していました。四宿一番のにぎわいを見せていたのです。

明治末から大正初めにかけ、現在の四号線、日光街道が出来て名称が旧道から新道へと変わりました。それまで、新道は下谷道と呼ばれておりました。

土地の古い人(60歳代)でも江戸時代から日光街道だとおっしゃる方がおりますが、JR南千住駅前のコツ通り商店街にある道路が、徳川家康が静岡の久能山から日光の日光山に改葬された時の1617年から奥州街道と日光街道と呼ばれており今の日光街道は新しい名称です。

さて、古称は「大橋」1594年架橋、両国橋が出来てから千住大橋と呼ばれるようになりました。その大橋を隅田川に最初に架けた伊奈備前守の伊奈家と板橋宿が深い関わりがあり、代々関東周辺に善政して、民衆から深く慕われていたのを知りました。伊奈備前守は、家康が江戸へ入府前より江戸の土地整備を命じられ、江戸に沢山の川が流れ込んでいたのをすげ替えたり。新しく彫ったりして農地面積を増やしたり、人の済める町作りに関わっていました。東京湾に流入していた利根川を親子三代に渡って千葉県の房総半島の銚子の太平洋に流すように改修した水治土木の大家として、また代々関東群代として農民と不覚関わって来た家柄です。

その伊奈家が江戸中期の明和元年(1764)に中山道で起った農民一揆(伝馬一揆・・農民20万余人が蜂起し江戸へ押し寄せた大事件)を幕府に代わって解決しました。これは伊奈家が長年に渡って農民の間に深く誠実に誠意を持って仕事に取り組んできた信用が解決したと思います。何事も誠実に心を込めてことに当ることは現代でも同じだと思い間寸。伝馬一揆は後で書きますが、宿場町で起った問題ですが、根本原因は今でも当てはまります。仙成こと杉山六郎 すまいるたうん第172号 平成23年3月13日