第14回コツ通りは、どこからきたの
先日、コツ通り(都道補助104号線)と日光街道(国道4号)が交わる先端にある真養寺(日蓮宗)の本堂で、第11回南千住の歴史に親しむ会が開かれ、ふるさと文化館の亀川先生が「誰が読んだかコツ通り」という演題で2時間に渡りお話をして下さいました。
地名のコツ通りとは?
先生は色々な文献「古文書」を調べて
①小塚原のコツから
A・天王様の瑞光石の塚
B・圓通寺の古塚の碑【源義家が奥州征伐の時、討ち取った48の首を埋めてつくった塚】
C・浅茅が原に点在した小さい塚などから
②骨ヶ原のコツから
A・火葬寺 江戸時代の火葬場(明治20年移転)の骨から
B・刑場【現在のJR線際2丁目都バスの車庫及び都営南千住2丁目高層アパート】の骨から
と考えられているが、骨ヶ原(骨通り)は洒落っ気の多い江戸っ子が名付けたであろうかと推察するとのことです。
江戸っ子はコツカハラ通りをコツカッパラ通りと呼び、それを縮めてコツ通りと呼んだのではないでしょうか。
亀川先生は「歴史的見地から正しい地名の由来はなく、あるのは由来をどこに求めるかというその時々の思考の変遷である」と述べています。
古文書に書き記されている文献を見ても刑場として幕府から本所回向院が持地として賜ったのが寛文7年(1667)ですから、そうなると古い文献史料、文安5年(1448)の熊野神領豊島年貢目録に小塚原鏡円と云う人が三貫三百納めたと記されていることから推測すれば、小塚原(コヅカッパラ)からコツ通りと呼ばれたとする①案となります。
鏡円さんは、現在天王様の宮司能圓坊さんの家と南千住図書館の横道に入った所にお住いの石山さんの祖先に当る方です。
多量の古文書より探しあてて下さった文化館の先生方に感謝申し上げます。
書き残すことの大切さを感じました。
まいたうん32号(2001年9月20日発行)