第81回 さざれ石と君が代

今回は、君が代がどのようにして国歌としてできあがったのかを書きますのでお読み下さい。

毎年起こる国歌斉唱時に起立したしないで教員を処罰するしないの問題が繰り返されていますが、国歌が制定された起こりを知れば、なぜあのように強制するのかばからしくなると思います。国を愛することや先生を尊敬することは自然なことであると私は思います。教育現場への締め付けが強くなると先生方は萎縮して良い教育が出来ないし、上からの指示とマニュアル通り教えている先生では子供達はついていきませんよ。私の経験では型破りの先生の方が70歳過ぎた今でも良き教師として付き合いをしています。

平成18年7月13日の毎日新聞夕刊「早い話が」で専門編集委員の金子秀敬さんが「君が代」を学校で歌わせないと国が滅びると力む人がいる、天皇制イデオロギーの歌は絶対に嫌だと構える人もいる。だが、君が代は英国人軍隊楽長の圧力のもと、苦し紛れに徳川家の祝い歌を解釈し変更して生まれたという故事来歴を知れば、御殿女中の黄色い声が聞こえてきて机をたたいて議論する気が失せるだろう」と言っています。

さて、本文は徳川家の大奥に伝わる「さざれ石」というおめでたい儀式の話。

かつて、大奥には、元旦に御台所「将軍の正室)がユズリ葉・ウラジロなどの縁起物と石が三つ、盥に入っている。まず「君が代はー千代に八千代にーさざれ石のー」と中年寄がまず「君が代はー千代に八千代にーさざれ石のー」と中年寄が唱えると対座する御台所が「いわおとなりて苔のむすまでー」と唱和し、脇から中老「上席の奥女中」が御台所の手に若水を注いで清めるという儀式がありました。

明治2年(1869)、まだ大政官政府が発足する以前の混乱期に英国から貴賓が来日することになり、浜離宮での歓迎行事には英語のできる人材を集め接伴係にしました。「日英国歌を演奏するので日本の国歌を教えてくれ」と当時、打ち合わせに来た横浜駐屯の英国軍楽隊長ウイリアム・フェントンに言われましたが、当時の日本には国歌がなく、接伴係の薩摩藩原田宗助(後の海軍造兵総監)は上司に指示を仰ぎました。上司の川村純義(後の海軍卿)に「おはん方を接伴係にしたのは、今度来朝あらせられる英国貴賓の饗応について万事不都合なかんごう取り計らってもらう為じゃ。そげんことをいちいち聞き合わせに来る必要はない」と怒鳴られ、困って周りに相談すると静岡藩の乙骨太郎(後の海軍通訳官)が思いついたのが「さざれ石の歌で君が代の君を天皇と解釈すればいい。それで旋律は薩摩琵琶歌の「蓬莱山」に同じ歌詞があるのを思い出し、自分が歌いフェントンに採譜させ、君が代は誕生しました。これは、沢鑑之丞「海軍70年史談」という古い本に出ており著者が直接原田宗助から聞いた話で信ぴょう性が高く、ネットでも引用文が見られると言います。

たった1分間程立って歌を歌わないからと職業を奪ってしまうなんて。なんだか、怪しい雲行きになって来ているように老人には思われ、心配しています。

 

2008年3月13日             すまいるたうん64号