第134回 動物の肉の話

先日、知人と牛丼屋に入って何年かぶりに牛丼を食べました。私は、魚が好きで普段はあまり動物の肉は食べないのですが、その時こんなに肉が安い物なのかと思いました。

ひと昔前には、コツ通り商店街には、飯田肉屋・大沢肉屋・大塚肉屋と三軒あり、仲通り商店街には筑波肉屋、武蔵肉屋と二軒ありました。が、現在は飯田肉屋一軒のみとなってしまいました。

昭和60年(1985)にはコツ通り商店街の店舗数は駅前を居れると160店舗以上あり、並びの仲通り商店街にも120店舗が営業しており、従業員を一人や二人は使っておりました。 時が過ぎ、商品入れの流通とお客様の購入意識の変化により両商店街ともお店舗数が激減し、商店街の機能が果せなくなってきてしまいました。

大量仕入れ、大量販売のやり方に小さい店はついていけなくなり、店を辞めてしまう方が増えています。年齢を重ねてからの廃業は生活していくことが出来ないので、どうしたらいいのか頭の痛い問題です。空いた店を貸せば良いといいますが、借り手がなく、あっても安い家賃にしかなりませんし、坪面積がなく食べていけないのが現状です。

話がそれてしまいました。

江戸幕府が支配していた時代、慶長8年(1603)から慶応4年(1868)にわたる265年の永い間、動物の肉を食べることが禁止されていました。

ところが、慶応4年12月月9日に王政復古の大号令が発せられ、明治政府が発足すると、動物の肉は薬であり、健康のためには良い食べ物であるから大いに食べるようにとおふれが出されて、町の中に肉屋とスキヤキ屋が開店するようになりました。永い間、神道と仏教及びキリスト教の禁止等により肉類を食べることが禁止されており、またそのように教育されていたために、なかなか一般に広く動物の肉(牛や馬のもの)を食べる生活が発展しませんでした。

戦後の食料の無い時代から、動物の肉や内臓(モツ類)を積極的に食べるようになり、食生活が大変化と共に人々の体格が大きくなり、背も伸びるようになりました。

私の子どもの頃、淨閑寺の墓地の裏に「モモンジ屋」があり、色々な動物(鳥類も含めて)店先に吊るして、肉は竹皮に包んで販売していました。戦後も、しばらく営業していたのを覚えています、

古い本によりますと明治4年(1871)に小塚原で屠殺をやっていたとあり、明治21年(1888)には三河島・寺島・大崎・千住などあり、明治26年(1893)には三ノ輪「旧大名屋敷跡地」に大規模な「日本家畜株式会社」ができて、月平均200頭の屠殺が行われていました。

以前は六瑞小学校の周辺には「モツ屋」さんが多く営業していて、よく買いに行きました。「ホルモン」と言われて戦後は大いに食べたものです。昭和11年(1936)に東京市立芝浦屠場が開設されて、三ノ輪の屠殺場は近隣の屠殺場と一緒になり、移転していきました。

肉の話は奥が深く、江戸時代から浅草・山谷・小塚原・千住大橋の両河岸と400年の長きにわたって繋がっています。

またの機会に書きますので、お楽しみにしておいてください。

すまいるたうん第232号平成24年 11月13日