第115号 延命地蔵尊のこと
3月11日に起きた東日本大地震で南千住地域の受けた被害は少なかったように思います。外壁のタイルのひび割れが生じたり、落下したりモルタルがはがれたりした家がありましたが、崩壊した家はありませんでした。
コツ通り商店街は南北に店が並んでおり大正時代の初めに道路の拡張工事(巾9mが16mに)が行われた東側の地盤は沈下しなかったのですが、昭和40年代末の道路の拡張工事(巾16mが25mに)が行われた西側では部分的(南千湯駅ビル前)に10cm 程の地盤沈下が起こりました。また、神社寺院の石灯篭や玉垣が崩れた所もありました。
一番ビックリしたのは、南千住コツ通りの延命地蔵(通称、首切地蔵といわれている)が、今回の地震で左手部分が落下し、全体の寄石(高さ4m余の石地蔵は27ヶの花崗石の寄石で造られています)が巾10cm位ズレ移ってしまい、しかも台座が据え付けられている地盤が本堂より20cm程下がってしまったことです。荒川ふるさと文化館の野尻館長や学芸員の皆さんとで協議して急ぎ安全な場所に降ろすことに決定しました。一個一個の石が重い為、重量の大きいクレーン車を手配しました。昔の職人さんはどのようにして寄石の組立をしたのでしょうか。色々と考えさせられました。
延命地蔵は徳川幕府の八代将軍吉宗の時代、寛保1年(1741)に刑死者や行き倒れの無宿人などを回向するという心で町民達が発願し建立したもので発願者の名前(深川の大工町の喜之助・木船町の頃五郎衛門・花町の利右衛門・横山町の長左衛門・相模屋の七左衛門・伊勢屋の新八)が台座に大きく刻まれています。これは、当時の商人達の経済的擡頭と仏教の衆々に対する帰依が滲透してきた時代であることを表しています。
この石地蔵は、江戸時代は小塚原仕置場であった現在の鉄道路線の上にあったのですが、明治28年(1895)に日本鉄道の土浦線の敷設により現在の場所に移転しました。また、石地蔵の左側に立っている御題目塔は、都営住宅の建っている都バスの発着場にあった法華庵「日蓮宗」のお寺に建てられていたものを移動したものです。 回向院、、延命寺(回向院から分離独立)が浄土宗ですので日蓮宗の御題目塔が存在するのが不思議に思われますが、このような事情で現在があるのです。
石地蔵の完全な建て直しには多額なお金がかかりますので、すぐには修復はできないと思われます。南千住コツ通りのシンボルである石地蔵が立ってないのは実に寂しいことです。
また、今回の東日本大地震は、大正12年(1923)9月1日に発生した関東大地震でもビクともしなかった石地蔵が移ったことで、過去のどの地震よりも大きかったことがよく判りました。
「みなせん祭り」「川の手祭り」「素盞雄神社の大祭」「コツ通りの夏の盆踊り大会」も中止となりました。商業人としてはこれでいいのかと思いますが、しかし実に寂しいです。何もかも中止中止ばかりでは・・・。
でも目に見えない放射能と戦っている方々、また災害にあわれた方々のことを考えれば致し方なし。
頑張ろう日本、がんばれ日本。 仙成こと杉山六郎
第175号 平成23年 4月13日