第102回 婦人靴に花をいける
2月26日から3月2日まで旧日光街道沿にあるコツ通り商店街の創業90年余になる旧佐藤八百屋「スーパーやまざき」(平成21年3月廃業)の空店舗を利用して小原流家元の「先生のご指導で区立第三瑞光小学校5年生40名が婦人靴に花をいけるイベントに参加して梅の花・チューリップ・ストック菜の花等をブーツやハイヒールにいけて、その作品を店内の空間にテグスで天井から吊り下げて飾り、幻想的で非日常的な夢の世界を作り出していました。大勢の見物の方々がいらして下さり大盛況のうちに終了できました。企画にご協力して下さったヤングシューズ様、高進製靴様に感謝致します。また、この企画運営を担当したバーバーABの海老江さん・芸大の柳原さん、慶応の斉藤さんにも感謝致します。
さてその話の中で「なぜ南千住は製靴業が多いのですか」との質問を受けましたので、その理由を店内に表示し、ご来場のお客様にはお知らせしましたが、ここで読者の皆様にもと書かせていただきます。
皮革は古代から中世、近代に至るまで戦争の道具として使われてきました。当時の天皇や公家、貴族達は人間や動物の死に対しては極端に「きたないもの」「汚らわしい物」として近づこうとしない習慣があり、それら「きたないもの」を「きれいにする」」ことを人々は「キヨメ」と言いました。特に彼らは自分の可愛がっていた人や動物の死に対しては非常に強く「恐れ」や「忌避」「ケガレ」としての概念が働いていたので、自分から触ったり片付けたりしませんでした。それで「キヨメ」綺麗にする人達が現れて処理するようになったのです。特に六世紀に朝鮮半島の高麗より皮革生産の高度な技術を持った人々が大勢渡来し「キヨメ」としての分業が進んできました。
戦国時代の大名達は、こぞってその技術集団を抱えてよそに移動させないようにしたのです。徳川幕府になっても、その仕組みを変えずに江戸では「新町」に集めて、弾左衛門という親分に管理させ、一大部落を作り出し、明治政府になるまで続いたのです。新政府の解放令により、武具を作る集団から国民の洋風化に伴い日常生活に使う靴の生産へと変化してきました。特に明治政府は軍の強化策で日本軍隊の装備の為の軍靴を大量生産するのにともない大規模な靴産業地帯へと発展していったのです。
弾左衛門は浅草にいて早くから洋式の革靴の技術を仲間達に修得させていたので浅草から南千住・三河島にかけて靴産業がすばらしい発展をし、隅田川の川辺近くには関連企業の工場がたくさん出来たのです。 皮革産業は水を大量に使うので川原に多く居を構えました。荒川区では南千住三河島に多くの工場が出来、その周りに下請けの家内工業が多数発展していったのです。 当時、コレラがたびたび大流行した為に密集地の三河島から移転させられた工場が多数ありました。明治時代「桜組」と言われて足立区河原町に移転し、現在「ニッピ」と言われる大日本皮革株式会社もその一つです。
仙成こと杉山六郎 すまいるたうん136号第136号
平成22年3月13日