浄閑寺は荒川区南千住二丁目八番地にある。
東京には上野寛永寺・芝増上寺・築地本願寺等、数々の名刹がある。然し、それらの有名の寺院には悲情の念は一つも起こらない。通称「投げ込み寺」といわれ又「箕輪の無縁寺」と称せられた浄閑寺は他の名刹とはその規模等に於いては劣るが、歴史書・講談・落語等によって勝るとも劣らない有名寺である。それで長くなるのであるが、浄閑寺に就いて述べてみよう。正しくは「栄法山清光院浄閑寺」というが通称は「三輪山浄閑寺」である。
開創は明暦元年(一六五五)新吉原開設に先だつこと二年であった。開山は天蓮秋晴誉上人随行順波大和尚となっている。過去帳によれば晴誉順波は「生国奥州あいず若松梶川五十三才卒」とあり、没年は「寛永元年丑二月廿九日(一六六一)と記されている。はじめは、増上寺の末寺であったが、いまは知恩院に属している。元文二年(一七三七)下谷八軒町より出火し上野広小路・東叔山・坂本・金杉・三ノ輪一帯之延焼した記録に残る大火があった。浄閑寺は灰燼に帰し、この災禍から五年はその間大洪水をも伴って浄閑寺にとって一種の危機であったともいえよう。これを立て直したのが十一世常誉上人で現在の過去帳もこの代から改めて起筆されている。浄閑寺をつとに名をなさしめた重要な人物がいる。それは小説家永井荷風である。荷風が「堂宇朽廃し墓地も荒れ果てゝいた」と書いた明治廿一、二年頃は改修直前の最も荒廃していた時であった。
いま浄閑寺界隈に暗澹たる印象を探ることはできない。「寺の小笹の茂り多き垣を取り巻いて」と荷風は書いているが流れていたという小流は音無川であるが、今は暗渠となって風情なき舗装道路と化しの一部を占めていたところである。それらの無縁墓は昭和四年に至って石垣造りの「新吉原総霊塔の下に一括して納められたのである。浄閑寺について少し長くなってしまったが、お許しの程を。浄閑寺のはす前に現在廃業してしまったが、下駄の型をした大きな看板の「にんべん屋」という下駄屋さんがあった。ここがあの有名なアラーキー事、激写ヌード写真家荒木経惟氏の生家である。浄閑寺を語るには吉原を十想うのだが地域外なので省略させて戴くが、私の思い出を少し書かせていただく。昭和十年、十一年頃、母から二ヶ月に一回位二十銭位を貰って浅草松屋の八階にスポーツランドがあり、そこに行くのが楽しみであった。大関横丁よりバスに乗り、地方橋を経由して松屋前で降りるのであるが、バス代が当時子供片道五銭往復九銭位だったと記憶しているが、バス代がもったいないので松屋まで友と語らい乍ら歩くのである。
エレベーターはジヤバラのついたもので八階に着くと、そこは子供の別天地である。電気自動車・小規模なメリーゴーランド・コリント・ゲーム等沢山な遊び道具があったと思うが思い出せない。浮かしたバス代で二時間位遊び帰りは 浅草寺境内に向う。遊びに行くのは日曜日の為か、そこには居合術・ガマの油売・バナナの叩き売等の大道芸人の集りがあり、屋台で買ったせんべい・大福等を食べながらそれらを見、裏手を通って木馬館を右に見て少し行くと瓢箪池の左側に至る。この池の周りには柳が植えられて大変情緒ある趣のあった所であった。終戦後は娯楽というものが大変少なく人々が求めたものは映画であった。浅草六区はその典型的な場所で大勝館・電機館・千代田館・金龍館等演劇では、エノケン・二村定一・ロッパ等の方々が拠点とした常盤座があり戦後すぐの混乱をいやす場所であった。私が一番始めに見た洋画は大勝館でシャルル・ボワイエ、イングリット・バーグマン共演の「ガス灯」であった。その当時の感動を今でも覚えている。大勝館は外観はきれいだが、一歩中に入ると椅子は全部崩れ落ち、立ってスクリーンを食い入るように見たものである。
然し、瓢丹池が埋め立てられ、その跡にはビルが立ち並びその一部に現在JRAの場外馬券場になってしまった。池が埋められてからは、あゝ浅草の灯は消えたと感じ浅草から足が遠のくのである。之もテレビの普及、近代化への再開発が埋めざるを得なかったのかも知れない。瓢丹池を右折し、千束に至る左側に遊女の性病を定期検診する吉原病院があり、その向いに赤い鳥居のある吉原池(花園池とも云う)があり現在は埋められてしまった。
安政二年の大地震の新吉原は一廓すべて焼失し、余りの熱さに遊女等は吉原池に飛び込み溺死、又は焼死・圧死等をし、その人々の死体は浄閑寺の大きな墓穴の中に、誰彼の差別なく投げ込まれた。「投げ込み寺」の名はこの時からいっそう高まったのである。吉原池を過ぎて廓に入る。揚屋門はすでに扉はなく、それを支える黒い柱のみが残っていた。私の見た女郎屋は時代劇によく出てくる様に左に格子があり、そのうしろが畳になっていて夜になるとそこに遊女がはべるのであろう。
昔は和服で髪を結って遊女のならび順が決まっておったそうであるが、私の子供時代はどの様になっていたかしらない。右が土間になっていてその正面に遊女の写真が置いてある。中まで、のこのこ入ってきれいな姐ちゃんが、いっぱい居るなあと写真を見ていると、妓夫太郎であろうか「こら、こゝは餓鬼の来る所じやない出て行け」とどなられた。ほうほうのていで逃げるませたガキである。昼の吉原は静かであった。日本堤を通って家路へと急ぐのである。
平成五年十一月下旬のある晴れた日に浄閑寺を訪ねる。門をくぐると右側にあった私の息子や甥がお世話になった浄閑寺幼稚園はすでになく、小火があったとの事であるが何の変化もなく静寂な境内である。正面の本堂の左側に又門があり、それをくぐってすぐ右に曲がる。少し行くと三遊亭歌笑塚がある。歌笑については知る人は現代余りいない。終戦後、少したって彗星の如く現れた落語家であった。彼は極度な近視であり、絶頂期にアメリカの進駐軍のジープ
に、はねられ死亡するのである。その塚の上段には異例とも思われる文人であり幾多の画を残された武者小路実篤氏の書が、下段には純情詩集の一節が彫られている。歌笑塚を右に曲がるとそこに立派な荷風碑がある。
「震災」偏奇館吟草よりのことばが綴られ荷風死去四周年の命日、昭和三十八年四月三十日荷風碑建立委員会とある立派な石碑である。左隅に故人ゆかりの品を埋めた小さな塚がある。荷風碑の前に「生まれては苦界、死して浄閑寺」花醉と銘うった新吉原総霊塔がある。之は昭和三十八年十一月に建立されたものである。帰途につ。く門の手前に浄閑寺新築完成予想図の看板がある。
いつの日にか立派な浄閑寺に生れ変わる日も近いのであろう。門を出て左折し小塚原回向院に向う。この浄閑寺については北小路健著の「遊女」を参考に致しました。浄閑寺の門を出、泪橋通りに向い、それを左折すると左にバスの発着所と都営マンションがある。ここは大正十四年十月十日、昔の刑場跡で東京市が買収、市電の車庫跡であった。刑場跡であり人が嫌ってしばらく放置されて原っぱになっていたが東京市が格好な用地として買収したのである、車庫の処は刑場入口にあった法華庵の処である。小塚原回向院の案内書によると『徳川幕府のはじめ重罪者に宛た所で昔は「浅草はりつけ場」と称せられし所なり。磔地場として開創されてから、二百二十余念の間に埋葬されし無慮二十余万と称せられるが大部分は重罪者の屍骸なり、文政五年八月南部家の臣 相馬大作・関良助の屍を埋めてより、國事犯の刑死者の死骸をここに埋める事になり、安政大獄以降、憂國の志士の屍は大抵ここに埋葬されたのである。
寛文七年刑死者の菩提を弔うため一寺を草創した。これが小塚原回向院である』と記されている。大森鈴ヶ森にも刑場があった事は有名である。又、小塚原は杉田玄白等が我が国始めて人体解剖を行った腑分けの記念地であり回向院にはその記念碑もある。
バスの発着場の右に長い歩道橋がある。地下自動車道路が出来てからは、それまでは隅田貨物駅の國鉄の大踏切があり回向院まですぐで、閉まっている時は短いドンドン橋という歩道橋を渡れば向う側に行けたが、現在は金網で線路はふさがれ、長い歩道橋を昇り降りしなければならない。降りた左側が回向院である。国豊山回向院と称し、浄土宗に属し本尊は阿弥陀如来である。本所両国回向院の住職弟譽義観上人は小塚原で処刑になり埋葬された者の菩提を弔はんが為幕府に請うてこの小塚原の地に一寺を設けることゝなり号して常行庵と云い両国回向院の別院となったのである。以来今日に至る三百十余年である。回向院の上を見ると大きな葵の御紋がついている。寺務所で聞いた処、回向院は徳川家菩提寺である芝の増上寺の末寺であったとの事、現在は知恩院に属しているとの事、浄閑寺
と同じである。入口を入って左側にあの非業の死をとげた吉展ちゃんの可愛いお顔をした吉展地蔵が立っている。聞けば、吉展ちゃんの村越家は回向院が菩提寺との事、右側のホコラの中に井伊直弼のそれと相容れず、嘉永六年十月七日に小塚原にて処刑された橋本佐内(景岳)の墓がある。その後に勤皇の志士の墓が廿体位並んでいる。
広い墓所がある処を左に曲がると金網に包まれた四つの小さな墓がある。それは片岡直二郎(直侍)ねずみ小僧次郎吉・高橋お伝・腕の喜三郎のそれである。ねずみ小僧次郎吉の墓は両国回向院にもあるので寺務所で尋ねた処、首は両国に首から下は小塚原にとの事でした。
泪橋方面より千住大橋位までが陸羽街道又は奥州街道ともいうが、回向院前から先は我々はコツ通りと呼ぶ。江戸から最初の宿場が小塚原である。小塚原を略して「コツ」と昔は読んだが近所に火葬場があったから「骨」にひっかけという説がある。そしてコツ通りには飯盛り女郎のいた廓があったことはいうまでもない。之は、吉原あたりとくらべるとかなり安直だったらしく 河竹黙阿弥の芝居「三人吉三廓初買」にも「こう、手前達は知っているか、此頃大層安い見世が出来たぜ。四百の転寝と湯豆腐に酒一本、おまけに湯へ入るというのだ。何とすてきじゃないか」すると相方が「そいつは滅法安いものだ・・・やっぱり小塚原がいいよ」なんてくだりがある。千住という土地遠く鎌倉時代に新井兵部政次が荒川の水中から小さな千手観音を拾いあげ三宮神山勝専寺に寄進したのがその名のおこりで初めは千手と書いたが、その後土地がひらけ、めでたいということから千寿となり、さらに人が住み着いたことから千住となったといわれている。先程、火葬場と書いたが回向院の近くにそれはあった。それは何処かは、こゝでは書くまい。火葬場の前に寛文九年各宗から分れた寺院が建立され 乗蓮寺、宗源寺等十九ヶ寺の多きに及んだ然るに明治十年には之等の寺院は廃止されて共同火葬場となり荼毘の煙は絶ゆる時が無かった。そのため異臭四隣に及び茲に於いてか有志相謀って移転の請願をなし、遂に明治二十年に廃止移転となるのである。博善社が資本金三十余万円を以て日暮里に創設。其の後、明治三十七年八月に三河島町屋に移転、現在に至るのである。皆川重男氏によると歴代将軍は日光東照宮参拝の折、異臭にこれは何故かと家臣にご下問があり、返事に窮したとの事である。この行列は各大名が列席する事となっており、先頭より最後尾まで約丗十万人にもなり、十何キロにもなったとの事である。日光東照宮に於いて現在行われている千人行列の行事はその名残りである。次に三ノ輪界わいの寺院、神社について書いてみたいが、之については長くなるので簡略にしたいと思う。お許し願いたい。
先づ西光寺、眞堂院西光寺は又は菩提院と称し、浄土宗に属し、増上寺末寺である。
開山は堅譽長公大和尚と云ひ当寺の本尊阿弥陀像は慧心僧都が彫刻、又弘法大師の作と唱へる座像四尺五寸許りの地蔵尊も安置されている。ここには幼稚園があり、私事乍ら私はここが出身園である。コツ通りのはづれに運手山眞養寺がある。初代吉田勘兵衛という御用商人の方が寺地二千三百四十坪を寄付し鬼子母神堂、書院等を建立、寺は自性院日身の関山である。その後、災害に会い暫く本堂等が無かったが明治四十四年予区政正(日光街道拡張する)の際に敷地を徴収された時の交附金で本堂を建立したものである。
コツ通りと日光街道を交差する所を少し行って右に入った所に円心山日慶寺がある。身延山久遠寺の末寺である。同寺由緒によれば天文十六年七月の頃、日慶と号する比丘尼があって一寺を谷中に創設して久遠寺第二祖日向上人を開山に戴き、人々之を日慶寺渡渉した。しかるに明暦の頃に及んで堂宇廃絶し寺号のみ在するに至ったが、日相と呼ぶ。一清信の比丘尼があって、地を自庵たる千住中村の郷竹露庵に選んで元禄十六年寺号を引移すと共に堂宇を建立して遂に当時中輿の業を完了した。ここは東町会会長の松田家の菩提寺である。
日慶寺の前にあるのが、素蓋雄神社である。創建は平成七年には千二百年になる。旧杜司の石山多気乙氏の家祖の黒珍が居所の東方の樹間に連夜異光を発する奇岩を認め、これ霊石ならんと日夜礼拝していると延暦十四年四月八日夜、遂に瑞光の中に須佐之男命、大己貴命が現れて神託があり黒珍は一祠を設けて両神を祀り午頭天王飛鳥権現と敬称したに始まると云う。其の後、午頭天王の祠を西面に飛鳥権現の祠を南面に造営し、六月三日、九月十五日にそれぞれ遷座した。享保六年両社が炎上し同十二年一社を造営し之を瑞光殿とし称した。当社の祭神が翁の姿となって現れた古跡奇岩を瑞光莉石と呼び又小岩様と云う。喜永四年、周圍に石玉垣を築き次いで元治元年浅間大神を祀り、岩石を疊んでその趣を改めた。現在、此の地名を小塚原というのは元この古跡を小塚(石塚)といったからであるとも云う。
素蓋雄神社より三ノ輪方面に行くと神島山眞正寺がある。曹洞宗に属し、当寺は今を去る三百七十余年、心翁永伝和尚の開基に係り初め、湯島にあったが後浅草に転じ寛文元年に当地に移されたのである。
満海山公春院は浄土宗鎮西派に属し、浅草聖徳寺の末寺である。開山は満海大行者と称し、元修験者であってここは其の村里の僧坊であった。然るに延宝寺中転じて一院となり浄土宗に改宗した。本尊は阿弥陀如来である。
吉展ちゃん事件で一躍有名にしたのが、補陀山円通寺である。通称「百観音」と云う。昔、当寺は下谷の広徳寺、入谷の鬼子母神と共に「下谷の三寺」と呼ばれ箕輪の円通寺(又は新町の百観音の名で広く知られた。旧上野黒門、彰義隊戦死者墓、天野八郎墓等有名人の墓所として名高い。ジョイフル箕輪現理事長の五十嵐家の菩提寺でもある。彰義隊戦死の墓は当時何人も捨てて観る者がなき死骸を当山廿三世大襌仏磨
大和尚が義憤遣る方なく一身を賭して之を荼毘に附し義商三河屋幸三郎の助力を得て当山に収骨埋葬したのである。旧上野黒門は明治戊辰五月上野に於いて彰義隊が之に據って大いに奮闘するも弾痕蜂の巣の如くになったのである。
当時の唯一の記念物であるが明治四十年十月帝宝博物館より円通寺に下賜されたのである。
之で三ノ輪界わい名跡散歩のペンをおくが大変な拙文を申し訳なく思うが少しでも昔を想う一端を表現できれば幸甚に思います。
※花又花醉(花又花酔)は昭和三十年代に亡くなられた、廓をよく詠んだ川柳作家
私は素蓋雄(鳴)神社創建一二〇〇年と書いたが、南千住のそれはその年月を経ている分けがない。昭和廿年3月の東京大空襲によって神社は焼失しその記録は廃爐に帰し何時創建されたかは解らぬと能天坊氏は語っておられた。哲学者梅原猛氏の京都もののかたりに依るとそれは京都の八坂神社によるとされている。八坂神社という名は明治四年の神仏分離以降の名でその昔は祇園社と呼ばれていた。(中略)祇園社は斉明天皇の時に造られたというが、それがはっきり史上に姿を現すのは「三代実録」の貞観七年(八七五)六月十四日の記事中である。まだ、社伝である「祇園本緑録」には貞観十一年六月七日疫病がはやり、天変地異が起こり、五穀実らず諸社に使者を出してその災害の平定を祈らしめたとある。社伝には疫病が流行したのは政治的に失脚した怨をもつ人の祟であるとして矛六十六本を立て祇園社から神泉苑へ御輿を送ったとある。これが今の祇園祭の初めとされる。
祇園社の主祭神・午頭天王という名は新羅
に午頭山という山があり熱病に効果ある栴檀を産出したところからこの山の冠された天王を疫病に効く神として崇めたことに因るという。この午頭天王の疫病信仰がインド密教と結合し、さらに陰陽道の信仰とも混ざり、我が国に伝わった。この神は明らかに仏教の仏でもあり、釈迦が仏教を広めた祇園精舎に因んで祇園天神とも呼ばれる。そのこの地一帯を祇園と言われる様になったという。
この神はまた記紀神話の神、スサノヲの命と同一視される。スサノヲの命は記紀によれば、天照大神の怒にふれて流罪となり黄泉の国の王となった。又スサノヲの命は八岐の大蛇を退治する。午頭天王には色々なイメージが重なっている。牛の頭をした疫病の利益のある神、そして祇園精舎の尊い仏教の仏、それに最大の祟り神である天上を追放されたスサノヲの命つまり国の内外における誠に恐ろしく力強い仏や神が祇園社の主祭神である午頭天王に集約されていったのである。神道学者の西田長男氏は午頭天王
について次のようにいう。
インドにおいて成立した仏教とシナに於いて発生した道教とわが国の固有宗教たる神道との習合によって生み出された新しいわが国の神祇なのである。しかも朝鮮において発生した民俗宗教を合揉してきているように想われる。そうしてよほど我々日本人の宗教的感情にマッチしたとみえ、あるいは天王社 祇園社あるいは八坂神社・素蓋鳴神社など称してわが国の津々浦々いたらぬ隈なく、これをいっき祭っていないところはないのである。
以上梅原猛氏の論文を要約して書きましたが、南千住の素蓋鳴神社も土着の豪士、農民が総代となり、いつかの日に創建されたものと拝察します。