俳聖松尾芭蕉は、元禄二年深川芭蕉庵から船に乗り曽良を伴い隅田川をのぼり「千住という所より船をあげれば前途三千里のおもい胸をふさがりて幻の巷に離別の泪をそそぐ」
「行く春や鳥鳴き魚の目は涙」所謂奥の細道吟行三千里の一番はここ千住(千住大橋を渡った所)に始まります。この句は船上にて泪橋近くで詠んだのであろうか。
泪橋の名称は、この句にちなんで作られたのか又、橋のたもとで吉原という苦界に身を沈める娘が親と別れる為涙した所からこの名がついたのか定かでない
この泪橋の下を流れていたのが音無川である。当時、数多くの河川とその支流が東京湾や隅田川にそゝいでいた。音無川は、秩父に源を発し王子を経て根岸のお行の松近く流れていた。これに就いては、故林家三平さんの奥様の海老名香葉子さんがテレビにて三平さんの父林家正蔵師匠の話としておられました。音無川は根岸を経て大関横街あたりより常磐線ガード手前の遠藤メガネ店の前を通り、日光街道を横断して浄閑寺裏を流れ(現在、日光街道に三ノ輪橋の道標あり)山谷堀に行き、浅草川と名を変え泪橋の下を通って 隅田川にそゝいだのであります。前述の音無川が日光街道を横断する折、その上に架けられたのが三ノ輪橋であり(長さ五間四尺巾三間)それは始め、木造であったが後年コンクリートに変り暗渠によって今ではその姿は見られない(三ノ輪橋の写真は現存しております) 日光街道は、その当時より道巾が狭くジョイフル三ノ輪の道巾より少し広い程度で、大関横丁より北千住に向い旧南千住警察署の前を通り素蓋雄神社(天王社)に突き当たり右折し神社に沿って左折したのが旧日光街道であり千住大橋渡ると右側にガソリンスタンドがありますが、それに沿った道は旧日光街道でその道巾が三ノ輪橋附近の道巾と考えられます。後に日光街道の拡張工事が行われ素蓋雄神社の鳥居も二回に至り内に引っ込めることとなり、その工事現場の写真が現在東町会会長の松田氏宅に祖父である松田菊蔵氏を中心としたものが現存しております。その工事によって現在の様に真っすぐになり眞養寺が右側に左側が墓地という珍現象が現れたのであります。ちなみに明治になり市制が施工された時、三ノ輪橋手前から千住大橋迄は下谷区(現在台東区)通新町となりましたが大正十二年、荒川放水路が完成するまでは度重なる水害と貧農が多く地域住民の陳情によって明治廿二年頃、税金が市より安い北豊島郡南千手町(箕輪村)に戻り荒川区が誕生する迄それが続きました。
余談になりますが、私の子供の折(六十年位前)円通寺裏の風見酒店の前を通り、千住製絨所(通称 ラシヤ場)の横を突っきって隅田川に水遊びによく参りましたが、風見酒店の二階の軒先に二米位の和舟が吊るしてありました。之も隅田川の洪水に備えてのその名残りと思います。之も少したつと姿を消しました。吉原土手というのが六十歳過ぎの方は良く耳にされた事と存じますが、遠藤メガネ店の前は台東区根岸であり箕輪橋から右に曲がった所から土手になり、大関横丁を左折して音無川に沿って吉原方面に続き吉原の迎え柳あたりまでが通称吉原土手があり、そこを徒歩や駕籠で吉原通いをする客で賑わった事と思います。
この吉原土手の為、根岸方面は隅田川の水難が無く根岸迄が下谷区となった物と思われます。ラジオの交通情報で大関横丁という言葉を良く耳にしますが、之に就いて述べてみましょう。明治通りと日光街道が変る地点を「大関横丁」といい附近には同名のバス停もあるのでその名称は多くの人に知られているのだが、横丁そのものは現在どの辺にあたるのであろう。資料でもこの大関横町の位置が幾つかに分かれている。
一、「荒川史蹟文化財」では「(前略)現在の常磐線ガード下から第六瑞光小学校手前右側までにあたる」とある。道巾は普通乗用車一台が通れる位で途中がその半分の道巾になり、東へ折れて進むと日光街道の裏通りに突き当る。
二、「荒川区の歴史」では「大関屋敷横丁(南千住一ー十六)と記し旧大関下屋敷と旧宗下屋敷の境界であったと思われる。イトーヨーカドー附近の写真を添えている。この道路も道巾がせまく明治通りから北に向い、元新開地通り商店街(ジョイフル三ノ輪)に出て家ごみの道を進むと民家に突き当る狭い三叉路になる。又、ある人は旧大関下屋敷と旧加藤下屋敷の間を北に延び旧石川下屋敷の西側を抜け西に曲り千住間道へ出るとある。まだまだ他の説がありその名称がどれであるか、定かでない「大関横町由来之碑」は南千住1ー三十六番、第六瑞光小李校の西北の角にこの碑はある。 明治維新により各大名が廃藩になるに及びましたが、その折の藩主が四十七代大関増業公であり、智徳兼備の英傑にして藩政を行うに教育を以てし、自ら一千余巻を現し、その内容については世界に誇る可き不朽の名著と云われている。在職十三年にして病の為引退して ここ箕輪の別邸乗化亭に住み括襄斉と号し、茶道・歌道等に精通し 人心救済に畫力したが弘化二年(一八四五年)三月十九日六十五才の生涯を終わった。大正十三年二月廿一日特旨を以て正四位を贈られた。世人大関公の偉徳を讃へて比地を呼ぶに大関横丁と称へた。と大関横丁史蹟保存会は述べている。大関家は五十三代続き現代に及んでいる、その大関下屋敷の隣に石川日向守の下屋敷があった。ここの現在の東町会と西町会の一部である。即ち跡地は南千住12、16番から31番まで33番から40番辺りである。この跡地に道路の都電側を秋元氏がその前側を大野氏とその娘さんの奥山氏が取得し、それを測地等跡地を整備したのが現在会長松田昇、チエ子子夫妻の祖父である松田菊蔵氏である。後に松田家も相当の土地家屋を取得し前記の方々の差配として今日に及んでいる。ちなみに大関藩について小述したので石川様について述べて見よう。石川様は伊勢亀山藩六万石の大名であり、下屋敷地続き五百十八坪を三河島百姓重右衛門から質上げて泡屋敷としたと記されている。三十代に当るのが石川成道氏でその父君は元子爵、大正時代は宮内省式部官や狩猟官を勤め七十歳で亡くなられたが、この方は「殿様気質がそのまま残っていた」と云われ、四十代まで毎日のように芸者遊びに興じ又全盛時代の双葉山の後援会に入り、タニマチとして自宅に双葉山を呼び派手に金を使っていたとの事。明治十七年の華族令によって旧大名は華族となり、二十万、三十万石以上の大名は公候爵に列せられ、この方々は旧幕時代から莫大の財産を持っていた。一万石以上十万石までの大名は子爵となったが、これらのほとんどはかつての貧乏藩 華族となってからも収入の大半は十五銀行に投資した金からの利潤で他は上屋敷・下屋敷などが主なもの。然し、この十五銀行が倒産し父の御乱業がたたって石川成道氏は斜陽の道をたどり現在は消息不明である。
前記の松田・秋元・大野各氏はおそらく石川氏より土地等を取得したのであろう。遠藤淳平氏・高梨桝吉氏・故古川金次郎氏の方々は、子供のとき現在の斉藤果実店と富士電機店の間に石川様の門があり門によじ登って遊んだと證言されている。その当時はさびれた通りであったがこの地に商店が少しづつ開かれ様相が一変したのは、大正三年四月一日応じ電機軌道(王電)が東北本線王子前より三之輪橋間が開通した為である。王電は明治四十四年八月廿日大塚、飛鳥山間が始めて開通し次に市電の千住大橋線と連絡する為、三ノ輪橋と王子間での線が開通したのである。そもそも市街電車の発達は明治十五年六月、馬に客車をつけた、いわゆる馬車鉄道が新橋ー日本橋間を走ったのが始まりで馬車鉄道が市内電車に変ったのは明治三十六年八月のことで品川、新橋間であった。
当時、東京電車、鉄道、東京市街鉄道、東京電気鉄道の三社によって電車が走り、市内各所に電車が走る様になり各社は明治四十年四銭均一の料金で明治四十四年八月一日に東京市に買収統一されたのである。王電も昭和十七年二月に市電と合併する事となるのであります。現在都電は交通事情等により廃止になりましたが、都電荒川線のみが沿線住民等の嘆願により現存しているのであります。王電三ノ輪駅は多数の乗降客により商店が増え始め、新開地通りから始り、商盛会、三ノ輪銀座を経て現在のジョイフル三ノ輪に至るのであります。
そもそも新開地とは地方では色町あいまい宿のある所をいうので、日本中の国鉄の駅近くには新開地が相当数あり昭和丗三年三月に売春禁止令が制定され、それまで方々にそれが残っていた。政府公認の遊郭は吉原を筆頭に江戸時代四宿といわれた新宿・板橋・千住・品川の格宿場がそれである。当新開地も周辺に人口が増えるに従い、銘酒屋という名のもとにそれが点在していた。それも大正中頃までで消えてしまった。新開地通りには現在の東京堂子供服店とつるや洋装店の所に総二階の奥行は王電まで届く立派な料理屋兼銘酒屋があり、之も大正中頃に壊され、新開地市場に変るのである。大勝湯寄りの角店が新井米店(現在アメ横で新井さかな店として盛業中)向い側の角店が初芝理髪店でその間の王電迄にいり豆屋、菓子屋、魚屋、肉屋、八百屋等の商店があったのは六十過ぎの当地に居住せる方は御存知と思う。之も昭和の中頃に廃止されてしまった。
戦後この前のシヤロン洋装店の所に町田会館(町田健彦氏の父君故町田勝治氏経営 町田会館の前は芳目という小料理があったとの事)が出来、二階が演芸場となり美空ひばりが子供の折ここで歌を披露したのがなつかしい。
現在、弁天湯がありますが、これは弁天様(弁天池より由来しているものと思う弁天池は石川日向守の下屋敷にあったものと思われる。私が五十数年前の子供の折、音無川が常磐線カード手前を右折して通っていたがそのまままっすぐ延び瑞光小学校の塀に沿って弁天池に通じる川があった当時それは暗渠となっており、それが弁天池の水源なのか、定かでない。弁天池は弁天湯から瑞光公園まで及ぶ矩形の大池でその中央に中の島があり、岸より橋がかかり、中の島弁天様が祀ってあった。大正六年の古地図には弁天池がのっておりますが、大正八年の古地図にはそれが無いところをみると大正七年頃に埋められてしまったのであろう。その折の弁天様は現在松田氏の中庭に祀られている。ところが昭和五年一月十日マス屋さん裏手の店より出火、西は小島味噌店より先は永楽堂パン店(当時は遠藤乾物店)迄全焼してしまった。二度と大火が無い様、今淵富賀志氏・松田長次郎氏(マツダ文具店)・高梨桝吉氏(マスヤ履物店)・樫本常三郎氏(橋本薬局)・五十嵐広次等(長岡屋洋品店)が有志となり弁天様が再建されたのである。信者さんも増え年中行事として「お稚児行列」が行われ商店街の子供さんが廿人位参加し裏手の子供さん供々盛大に行われ、私が知っている限りでは松田チエ子氏・現総務部長の高梨和夫氏・甲州屋の名取永吉氏の方々が参加し、その記念写真が現存している。弁天様は昭和中頃になくなる。以上は高梨桝吉氏の談話を参考にしました。 火事のことが出ましたので商店街に面したものを記して見よう。裏手の火事は二、三回あったが大正十五年七月やま吉瀬戸物店(当時田中乾物店)の裏側王電に至る西側に長屋が軒をつらねその一軒より出火、松田氏宅を始め、堂迫米店位まで全焼してしまった。次が昭和五年の高梨さん宅の火事、地祇が昭和四十二年三月十二日に三ノ輪座の裏手の家より出火その附近が全焼したのは知っている人も多いであろう。三ノ輪座は邦画系であり、附近ではマルマン・リビングストアーになっているがそこに洋画系のキネマハウスがありともにテレビが出る迄隆盛を極めた。三ノ輪座の前には相州屋と春日堂甘味店がジョイフル会館の所には角に現西町会にある猪鼻酒店、隣が高木菓実店(コスモ不動産)、次がのんきな父さんの大きな看板があった勉強堂菓子店現在公園になっている角に満州屋雑貨店(西町会の横沢氏)隣にヤマシロヤ洋食店(現在榊原電機店)等の店があり、昭和丗年後半まで商店街の中心地であった。然し、大東亜戦争の激化に伴い昭和十九年瑞光小学校より都電に至る所が学童疎開により疎開道路となり、後年瑞光公園とジョイフル三ノ輪会館、第二出張所が建設されることになるのである。昭和四十二年イトーヨーカドー三ノ輪店第一号店が出店することによりカネキチスーパー附近が商店街の中心となる変化となるのである。
次に祭礼について述べてみよう。『改修荒川区史』上巻は次の通りである。(素蓋雄神社は天王様ともいう)昔から名高いのは南千住素蓋雄神社の祭礼である。(中略)昔は小塚原町・町屋・三河島・三之輪。通新町の五ヵ町村に分かれていたから、その祭礼は寺社奉行、所役人以下氏子総代・世話人・名主・取締のもとに盛大に挙行され、ここに江戸盛期の文化・文政頃にはいとも盛大に行われた。と記されている。荒川区教育委員会の平成二年度の史料によると素蓋雄神社の伝承として天文十年荒川洪水の折、町屋村杢右衛門が御殿野(町屋)において神輿を得、本社に納めてより神輿渡御が行われたと伝える。現神輿は明治十年千葉行徳、十代浅子周慶の作、昭和六十三年同十三代に大修繕を依頼し完成する。鎮守講は六十一ヶ町に及び新開神睦講はそれに属している。大正七年に 新開地近くの野原で祭伴店を着た三.四十人の人々の写真が残っているがその時はまだ新開という睦はなかった。昭和廿年の東京大空襲により神社は焼失し史料がなくなり、新開がいつ出来たのかは正確には解らないが大正十一年八月吉日と大幕に新開神睦講と書かれており、又前記の浅子氏の作と伝えられる。現状の大神輿の下のプレートには松田菊蔵氏(マツダ文具店)・山崎富次郎氏(大勝湯)・栢沼文蔵氏(野笹カラス店の叔父君・田中梅之蒸氏・亀倉常松氏・町内頭 馬場諏訪吉氏の名がきざまれておりその頃に新開神睦講が設立されたと思う。
以上三之輪橋界わいについて、とりとめのない拙文になってしまったが以上については、皆川重男氏、高梨桝吉氏、松田達弥氏や他の方々の御助言御畫力によるもので厚く御礼申し上げます。機会があれば三ノ輪橋周辺の名跡等を書いてみたいと思います。又、私の記憶違いもあるやも知れず違う点があれば商店街事務所に御一報賜れば幸甚と存じます。
左の写真に見られるとおり、勝海舟等は立っており石川様大関様は座っており上段の方々より上席であることが伺える。