「温故知新」昔の人は実にうまい事を言ったものである。当商店街の成立する過程に就いては「三ノ輪橋界わい」で述べたが、その先人の方々が大正初期より昭和初期までに大体の店舗の形成に努力なされ現実に至るのである。その間、大正十二年の関東大震災に災害を受けず、又日中戦争・大東亜戦争にも被害を奇跡的に受けなかった。 しかし、この災害が間接的に当商店街に商店の流出を促し、少しの流出もあったのである。流出とは昭和十八年頃より米軍による空襲に備えての地方への疎開、又戦時企業統制令に依る営業不可能の店も出てきたからである。
 昔に戻ろう。大正五年四月一日発行城北タイムズの新聞紙上に「小生夢坊」という方が次の様に新開地について書いている。全文では長くなるので抜粋して述べませう。
三ノ輪新開地ーなんという美妙な響きであろう。私は新開地に二度参って居る。八百の戸数、いづれも新しき木の香する家、小さく立ち並んだ狭い家々にも大いなる前途の光明が輝いて見えた。武蔵野は、今日の東京を開いた。三ノ輪の未来はやがて、第二の浅草の繁栄を生み五十年、百年の後には、一つの都会を開くものであるかもしれない。新開地とは創造である。新開地八百の戸数のうち半ば銘酒店と聞く。新開地と銘酒店は附きものである」と云々述べている。又この紙面で編集者は三ノ輪といったら誰も知るものもない位、であったのは大正五年の十年前のことである。それもそのはづ今でこそ、人通りも多いし、電車の停留場も出来て立派な町になって居るのであるが凡そ十年前迄は道も狭く、夜など薄暗い気味の悪い往来で家屋も失敬ながら、みすぼらしい家ばかりであって、今では誠に以って見違える程、よい町になっていると書いている。現在に於いても「ジョイフル三ノ輪」に買物に行ってくると云う人は案外少ない。「新開地」に行ってくると云う人が大半である。この人々は戦前から居る人達ではない。他の地よりの居住者方々もである。それほど「新開地」は良い響であり、そこには歴史を超えた何ものかがあるのであろう。
 三ノ輪橋という王電が開通し駅が出来た事によって新開地商店街が整備された事は前にも述べたが、昭和十七年秋から戦後食料、衣類等みじめな生活があったが、朝鮮戦争が勃発が契機となり、田中角栄氏の列島改造論も発表され、好景気を向え、昭和廿九年頃迄小売業者は安定した生活を得られたのである。昭和四十年頃より、そろそろ大型店の進出が現れ始め、我々零細企業への影響が徐々に圧迫となって現れたが、各店の経営努力によって現在のジョイフル三ノ輪が形成されているのである。
 平成五年十二月初旬、高梨桝吉氏宅を訪れる。氏は現在満九十二歳になるが矍鑠として記憶力も抜群であり、昔の當地を知る唯一人の方である。長時間に立ち話をお聞き致しました。高梨宅の前の荒川アパートは取り壊され更地になっていた。(平成七年一戸建四戸が建てられた)
 ここは明治末期か大正初期に静亭という名で寄席又は芝居小屋を建てられたのである。後半、春木亭と名を変え席亭になったのが松坂屋こと関口梅吉氏である。この方は芝の増上寺、靖国神社有名寺社の夜店の取締であり俗に云う香師「てきや」の元締であった。大変失礼な事ではあるが、この方は口から下はすぐに首で顎が大変小さく無いに等しい方で私の子供の頃「顎無しオジサン」と影で呼んでおったが、いつもニコニコされ親しみ安い方であった。町会、祭礼の催し物等の行事には必ず参加されて居り、その折の写真が現存している。その当時、商店街の会合が春木亭で行われ、その為か商店主で無いにも拘らず短期間であるが、商店会長を務めたそうである。
 春木亭も関口氏がお亡くなりになって今はないがアパートとして再生されたのである。
 大正から昭和廿年後半にかけて新開地通りはオシルコ道路といわれ、雨雪が降ろうものならドロドロの通りとなり長靴か下駄でないと歩けない様相に一変するのである。然し、明治四十一年、四十二年に三河島汚水処理所が其の壮大な規模と斬新な設備とを以って着工の運びとなり六百参拾万円にて大正二年に確定を見た。然るに工事半ばにして第一次世界大戦勃発、財政計画は根本より破壊された。かくして十三ヶ年の日数と一千五百万円を投じて遂に大正十二年三月完成を見るのである。下水道も荒川区内は徐々に整備され新開地もオシルコ道路も解消されアスファルト道路に変身するのである。
 六十歳以上の方々は御存知と思いますが、戦前新開地に色々な物賣が往来していた。ピーピーと汽笛みたいな音を出してリヤカーを引き乍ら歩いていた「ラオ屋」之はキセルの掃除屋さん、又眞黒な箱に引出しが五個位つき、それを前後二つを天びんで、かつぎ、タンスについている様な、とつ手をカチヤカチヤ鳴らし乍ら歩いている「定斉屋」と云う薬売り、この人の服装は眞黒な伴天とパッチをはき頭には黒い小さな漆塗りの編笠をかぶっていた。越中富山の薬売も小さな柳行李を背負い、各家庭を廻っていた。拙宅にも訪れ、私は紙風船等をもらったことをおぼえている。
又、天びんの両方に金魚を桶に入れ独特な歩き方で「金魚い、金魚」と声を出し乍ら歩いていた「金魚屋」も懐かしい。又、人に引かれた牛を良く見かけた之は第六瑞光小学校が開校する前に其の地に屠殺場があったからである。之も昭和十三年頃芝浦に移転、昭和十五年十月廿五日に第六瑞光が開校する迄その間広い原っぱになり、子供等はここで野球や凧上げ等をして楽しんでいた。ちなみに瑞光小学校は明治十年十二月十五日素盍雄神社脇に開校、明治三十八年六月六日第一瑞光高等小学校と改称、戦後廃校となり次に南千住中学校となり之も廃校現在は更地になっている。大正十年四月一日に人口増加を機に現在の地に瑞光小学校が設立されたのである。商店街に関係なき事をるゝ述べたが大正二年に応じ軌道株式会社が出来之によって新開地商店街の基盤が出来た事は「三ノ輪界わい」に述べたが商店街としての組織化はいつ頃か解りませんが判明しているのは大正十三年頃に会長職に遊技場を経営していた伊藤裕明氏、前述の関口梅吉氏、現在の大村パン店の所に居住し和菓子店を経営「金花家」という屋号の今渕當賀志氏(五班、故今渕勝氏の祖父 現在廃業)次に当時は乾物店 現在は菓子店を経営している吉田俊夫氏の厳父である吉田嘉一氏、地祇に橋本薬局の橋本常三氏、又昭和十九年には再び今渕氏が会長に就任、終戦を迎えるのである。その間高梨桝吉氏・松田長次郎氏・名取勝広氏・古川金次郎氏・五十栄広次氏。御名前を失念したので屋号でお許し願いたいが、信濃屋洋品店。武江米店・紅屋呉服店・小島味噌店・松坂屋洋品店・東京堂洋品店等まだまだおったのだろうが、この方々が会長を補佐し戦前の商店街を支えたのであります。
 然し、昭和十七年頃より戦火が激しくなり組織化とは名ばかり自然消滅となるのである。この時までは店舗の大小を問わずその内情を、とも角として店主は一國一城の主であり現在のように大型店があるではなし、せかせかした生活ではなかった。今では死語になっている「旦那」でいられたのである。気の合った者同志で旅行し酒を酌み交わし談笑し大変平和で楽しい時代であった。
戦後は尾林儀一郎氏(大坂屋乾物店)中根章三氏(あみ屋履物店)宮川林太郎氏(ハカリ店)の三氏によって安全会という名で組織化を図るのである。
 昭和廿四年より三ノ輪銀座商店街となり尾林儀一郎氏(昭和27年迄)佐藤芳房氏(28~29年)高梨桝吉氏(30~34年)井草真氏(昭和35年10月迄)が会長を歴任するのである。昭和35年11月に協同組合を設立、初代会長に松田長次郎氏が就任46年まで会長職(理事長)にあり、その間再開発構想を作成するも志半ばにして御逝去なされるのである。二代目に吉田俊夫氏が就任、吉田氏副理事長時代の48年に振興組合に改組、58年迄理事長を務め、58年より63年迄松田昇氏が63年より五十嵐義夫氏が現在に至る迄辣腕を振るわれているのである。ここで特筆すべきはアーケード建設という大事業である。昭和48年5月第十三回通常総会に於いてアーケード建設早期実現を議決するも翌年にはオイルショックによる資材不足・高騰・金融引き締めその他の事情により状況好転まで建設事業の中止を決定するのである。昭和51年3月理事会に於いてアーケード建設委員承認者全員を承認、吉田理事長(委員長)を柱として九名の副委員長をはじめ各部の一方ならぬ御努力と御尽力によりこの大事業に邁進するのであります。私も副委員長として広報連結部長の末席をけがし、パンフレットの作成等の作成を部員の方々の御協力と共に完成。アーケードのある街々を見学、反対者一割弱もあるも着工の運びとなり、53年12月に完成、54年一月十三日晴れて引き渡しの完了を見るのである。反対者の方ともブロックの責任者及び理事の方の並々ならぬ御努力により承認するに至るのである。考えてみるにその完成には各店の多大なる出費等ご迷惑の面が多々 あったと思いますが、然しアーケードがなかったら現在どうなっていたか、ゾーとする思いは私だけであろうか。その完成により新装する店、閉店するもすぐ埋まる等附近に大型店、安売店の進出あるも経営努力によって次の時代への展望も明るさが見えるのである。各お店の繁営を祈ってやみません。(アーケード及び組合会館の新設については「パンフレット」及び完成までの経過」に詳細に書いてあります。
簡単ではありますが、大正より現在に至るまでの経緯を述べましたが、大正より昭和十年頃開店、現在に至るお店を紹介致しませう。(  )内は(現店名)場所の移動せる店もあります。東口より西口へと参ります。
武蔵屋糸店(ひまわり糸店)・関口酒店・
向井時計店・斉藤果実店・信濃屋洋品店(シナノヤ)・古川家具店(辰巳商会)武江米店(メルボ、タケエ)・矢口足袋店(ヤグチ、カバン店)・さがみや履物店・吉田乾物店(吉田菓子店)・八幡屋米店(ヤワタたこやき)・小林どぜう屋(小林玩具店)・松田文具店・砂場・近江屋呉服店・トヨダヤ洋品店・長岡屋洋傘店(ナガオカ)・相州屋・あみや履物店・橋本薬局・甲州屋布団店・マスヤ履物店・藤森乾物店・ボタン美容院・小島味噌店・神崎屋・大勝湯・高木果実店(コスモ住宅)陶芳堂(ミント ミント)・弁天湯・青木薬局・ヤマシロヤ(榊原電機)約丗店舗余位である。
 「三ノ輪界わい」にて三ノ輪座附近が通りの中心と書いたがその近くに昭和十五年頃迄大きな呉服店が集まっていた。松楽とナガオカを合わせた坪数を持つ三河屋呉服店、その前が近江屋呉服店、その隣りシャロンの所に後ろのロミオさんの入口の所まであった。つるや呉服店、近くに紅屋呉服店・つるやモスリン店・末広屋小物店等があったのである。何故、この様なことを書くかというと、つるや呉服店の販売方法が子供心に興味があったからである。それは、中央にレジスターがあり十本位のハリ金を書く部所に吊るし、お客様が買物をするとハリ金につけてある箱に伝票と共にレジに向い押すのである。すると会計さんは釣銭等をその箱の中に入れ元のところに又戻すのである。その手際の良さに見とれていたのである。昭和十三年頃、三河屋呉服店が廃業、湯島にて金融会社を設立し長岡屋が之を買収、つるやも昭和十五年頃廃業、現在は近江屋呉服店のみが盛業を続けるのである。
私事で大変恐縮ですが、懐古趣味として落語好きの私の当時の世相を書いてみたい。
 コツ通りには城北一の席亭として栗友亭又各地に春木亭の様な小さな芝居小屋兼寄席が多くあった。然し、当時著名な所は上野の鈴本・新宿末広亭・人形町の末広亭又講談・新内等の寄席である上野本牧亭等があった。父の叔父は停年退職し茨城県の霞ヶ浦近くの麻生村に寓を設けた。落語好きの「麻生のぢいさん」は日に二回位上京し午前中に拙宅に電話あり午後五時半に上野鈴本前に来る様にとの事。父の用事がある時は私が代りに行くのである。私は之を何よりも楽しみにしていた。切符賣場で切符を買い、下足番がおり、スリッパに履きかえる。そこに黒繻子の襟をつけた和服を着た案内の女の人に連れられて相撲の座敷席の様な所に案内される。桝席がいくつあったか覚えはないが、席の後方は階段式の椅子席になり両側は立見席の様な記憶がある。何よりの楽しみはお弁当である。二段重ねの松花風のお弁当である。ラムネも買ってもらうが子供の私には落語等解ろうはずがない。若き日の志ん生・柳橋・文楽・小さん等、漫談では日航機で大島三原山に激突事故死した大辻司郎・松旭斉一座の手品等が演じられていたのであろう。第二の楽しみは帰りの円タクである。当時のタクシーは全部が外車で外に足掛があり、自動ドアーなどはなく「ぢいさん」はドアーを開けると「三ノ輪迄三十銭」
と運ちゃんに声をかけ後部に座る。
「旦那、もう五銭」というと「ぢいさん」「では降りる」と云う。「しかたがねいや」と運ちゃんは云う。私は「ぢいさん」の前の補助椅子を倒して之に座る。之が何よりも楽しみであったのである。拙宅に帰ると「よっちゃん」が待っている。
「よっちゃん」は公園角の相州屋さんの横の道路三軒目あたりにあった「アンマ」さんである。「麻生のぢいさん」に言わせると日本一うまい「アンマ」さんとの事。之を何よりも楽しみにしていた。
 明朝、麻生へと帰路につくのである。「ばあさん」も月一回共に来るのであるが、夫婦共一生を麻生で終るのである。その「よっちゃん」の隣りに「雷門」という幕下格の力士がおり、相撲の地方巡業で見せる「ショッキリ」業とし春木亭でも演じ、又橋本薬局の裏に私の子供時代、原っぱがあり、ここで草角力をやりその折、土俵上で大きな桶をさかさに置き額で五寸釘を打ち込む等アトラクションを行っていた。戦後になると鈴本も桝席がなくなり全部椅子席になっていた。「ジョイフル三ノ輪」に関係無き事をるる書きましたが、お退屈様でした。
 私以外に「ジョイフル三ノ輪」に就いて詳細に御存知の方は多いと思いますが、私なりの小稿を之にて終らせて戴きます。
「三ノ輪橋界わい」「三ノ輪橋名跡散歩」
「ジョイフル三ノ輪今昔物語」の三部作が三ノ輪橋を知る上に少しでも参考になれば幸甚と存じます。又、末筆乍ら皆川重男氏、高梨桝吉氏等の方々のご協力を厚く感謝申し上げます。