第49回 首切り浅衛門

コツ通りへ史跡巡りでいらっしゃる方は回向院の首切り場のような言い方をされますが、回向院はあくまでも死者の冥福を祈る為の寺で、刑場は現在の貨物引込線から都バスの車庫にかけての土地がそれです。ですから、埋葬地である寺側の常磐線の下から骨が多く出てくるのではないでしょうか。

史跡という言葉は、亀川先生の調査によると、回向院の現住職の祖父である水野了仙さんの前の住職川口巌考さんが、「古跡」という表現を明示20年代の日本国有鉄道株式会社と東京府との墓地移転の時使用したのが、一番早いことが判りました。

また、寺院内が今のように整備されたのは第二次世界大戦の真っ最中の昭和8年(1938)~17年(1942)であることが烈士遺墳再建碑(回向院へ入ってすぐ右側に並んでいる墓石のうしろに建っています)

の碑文から読み取れました。先代の川口巌考住職の努力が大きかったから回向院は現在史跡となったのです。

回向院は昭和47年(1972)の本堂新築の時に2階に展示室を造り、そこに首切り浅衛門の刀が展示されていましたが、今は公開されていないようです。

首切り浅衛門は山田浅衛門と言い、明治14年(1881)に斬首刑が廃止になるまで江戸元禄(1688)より八代続いて首切り役人を受け持ち、六代が吉昌、七代吉利が吉田松陰・橋本左内の首をはね、八代(よし)(ふさ)が高橋お伝の首をはねました。薩摩の示現流と同じ居合術で山田流といい、主に大名方の新刀の試し切りを行っていました。

『一胴落しニ胴落し切り手小野勘十郎 三胴落し切り大和(やまと)(のかみ)安定(やすさだ)』と記録されています。

※ 死体を横たえて積み重ねて新刀の試し切りをしました。三胴とは三体重ねた状態を言います。

※ 小塚原刑場(明治6年7月1日廃止)江戸時代、鈴ヶ森と双璧をなすお仕置き場(処刑場)           平成16年8月