第36回 コツ通りの燃料

以前の燃料といえば、コツ通りも薪も木炭でした。大きな家では「へっつい」=「かまど」(煮炊きをする釜を掛けたところで、大谷石やレンガや土やコンクリートで出来ていた)をニ・三個備えていた。一般の家では「七輪」「七里」(わずかなスペースでも煮炊きが、できるように工夫されている土製のコンロ)でした。

明治26年11月に白鬚橋近くの橋場に東京瓦斯会社の橋場支所(後の千住製造所・明治18年に創立)が完成し、ガス供給を開始しましたが費用が高すぎて、普及するに戦後30年代を待たねばなりませんでした。「薪」や「木炭」の他に「レンタン」「豆タン」「石炭」「コークス」等が使用されていました。ガスの主原料であった石炭から副産物として出来たコークスは火力が強く特に鍋物用の燃料として引っ張りだこでした。

コツ通りの大踏切を越えて浅草方面へ向かった左が3丁目(地方交番がある)、及びその向かいの2丁目周辺は明治から大正の頃は燃料商が多く、隅田川が大雨で増水すると町に水が流れ込み、その度に3丁目の方からコツ通りに大量の薪が流れ込んで来ました。

なぜ千住大橋の方からでなく、大踏切の方からコツ通りに水に押し寄せてくるのかと申しますと、大踏切の向こうには隅田川の水運と陸上の貨車輸送とを繋ぐ明治34年までに設けられた33本のドックがあり、川の水位が上がるとこのドックから引き込み線を伝わって町中に水が押し寄せてきたのです。

明治20年には日本石油油槽所、26年には東京瓦斯千住製造所、29年には隅田川貨物駅、39年には鐘紡、41年には日紡がそれぞれ設立され、近代工業地帯となりました。

これらの工場が稼動するためのエネルギーとして、石炭が必要でした。石炭は、常磐炭鉱から貨車で送られ石炭置き場へ、そこから石炭船が川からドックへ入り接岸、そして陸揚げです。

当時は「パイスケ」(竹かごで出来ているザル)を天秤棒の後先につけ「はね板」につたわって運んだもんです。手間取職人が大勢働き、大変な賑わいでした。

余談ですが、「消ずみ」という煮炊きをした薪の燃えかすを「消しつぼ」という土器のふたの付いた容器に入れ保存し、後で座敷に使う火鉢の木炭の種火に使用したのです。

 

まいたうん55号(2003年8月20日発行)