第35回 コツ通りの下水

前回では、上水でしたので、今回は下水です。江戸の昔の水路は、川・堀・掘割・ドブとあり、コツ通りでも昭和30年代後半頃まで使っていました。現在の水洗式トイレの普及は、それ以降になります。

南千住のすぐ隣りに近代的汚水処分場が明治41年(1908)4月に計画許可され、42年8月に5ヵ年計画の予定が、明治44年8月10日の空前の大豪雨による水害で設計の変更を加えることになり、実施は大正2年4月になってしまいました。しかし、これも欧州の戦乱が始まり諸物価が値上がりした為に、予算も更正を重ね、幾多の歳月をかけ、やっと大正12年に完成したのが、現在の三河島汚水処分場です。完成したにもかかわらず、長い間使用できなかったのは都心部から工事が進んできたためなのです。

昔は糞と小便は別物だったのですが、「下水道法」が制定されて、下水と便所「糞と小便と紙」が繋がることとなりました。リサイクルの面からは、いかがなものかと思います。というのも、当時は大小便がお金になっていたのです。

江戸ではトイレのことを川屋(かわや)・厠(かわや)・雪隠(せっちん)・後架(ごか)・総後架(そうごか)【長屋の共同便所】・内後架(うちごか)【自分の家の中の便所】・手水場(ちょうすば)・ご不浄(ふじょう)などと呼んでいました。

なぜ、大小便が金になったかと申しますと、昔の農業の肥料が魚や油粕と並んで、人の糞尿が下肥(しもごえ)と言われ、大変良質なもので重要とされていました。

南千住のコツ通りは昔から大勢の人々が集まり、その排出量は多大でしたから、近在の農家が争って買いに来たものです。

一昔前には、コツ通りにも肥桶をいくつも積んだ荷馬車がポッチャンポッチャンと音を立てながら通っていったもんです。

家々の路地では、ひしゃくで汲取口から汲み出して肥桶に入れてる風景があちこちで見かけられました。

「大家のしりもち」とは共同便所で儲かった大家が、年末に長屋連に配った餅のことを言いました。

まいたうん54号(2003年7月20日発行)