第27回 米騒動

今から84年前に現在では考えられないような、一万人もの群集がコツ通りから天王さまへとおしかけました。大正7年(1918)8月17日のことです。当時第一次世界大戦により好景気でかつ、日本軍はシベリアにも出兵(1918~1922)したために物価が上がり、金持ちや財閥が米の買占めに走り米価が騰貴しました。はじめ富山県下の漁村で騒動が起こり、それを機に全国に広がり東京・大阪など3府36県におよびました。『東京市では最初に8月14日の午後6時頃より群衆が日比谷公園付近に集り、その数・数千に達するに至り解散を命じられると、上野公園へと暴行を繰り返しながら浅草公園へその数三千余、吉原には更に一千余の一団ありで各所に集合し、各町の白米商を襲い投石をし吉原土手までに六千の群衆ありで、各派出所などを包囲し投石をしながら千住大橋天王さまへと向う』と当時の新聞に報じられています。南千住のすごいところは当時すでに天王さまの境内に有力者達が白米廉売所を開き、米の販売を始めていたので南千住からの参加者はいなかったとのことです。立派ですね。

コツ通りのローソク屋倉島藤太郎さん(明治41年(1908)生れ)のお話では『倉島さん方に大きな土蔵があったので、暴徒に焼かれそうになったのですが店の前に大きなローソクの看板が置いてありましたので、大看板のおかげで焼かれずに助かった』とのことでずいぶん恐い思いをしたそうです。倉島さんは江戸の中期より武士から町方へとくだり、ローソク屋の他に乾物屋屋号松坂屋を二軒だしていたそうです。当時の町の人々の江戸っ子気質といい、金持ちや有力者たちの困っているときには「お互いさま」とみんなで助け合う心意気、現代では失なわれてきたような情を持っていた時代の記事でした。戦後個人の権利意識の高揚により、自分以外の人に対する思いやりや情が薄れて来たように思います。人は一人では生きてゆけません。人と人との情を大切にしていきたいもんです。

第27回まいたうん46号27回20002年11月 〕