第22回  公立学校 第一号瑞光開校

前回は古文書から見て昔の庶民の教育を少し知ることが出来ました。現在は、勉強したいと思えばある程度の希望するところまで、全ての人がかなえられる良い時代となりました。南千住の公立学校が出来るまでは各個人がおのおのの家庭で親が教えるか、お金はかかるが教えられる人をお願いして勉強をしましたが、それが一歩進んで寺子屋(私学の前身)で教えるようになり、さらに誰もが教育を安いお金で受けられるように地域の有力者達が努力し資金を出しあい、公立学校第1号瑞光が明治20年3月7日に綱張りを、同年10月13日に上棟式、12月15日に開校式を挙行するに至りました。

当時の記録を読みますと全町あげての協力がうかがえます。今戸町・橋場町・山谷町・南千住の住民の有志が大勢寄付をしております。コツ通りの中ほどで現在文具店を営まれている渡辺さんのご祖先のお名前も見うけられます。その後、人口の増加に伴い、第二瑞光・第三瑞光と公立学校が創立されていき、子供達が文字が読め、文字が書け、計算が出来るようになり、その後の日本の国の発展を見るのです。いかに基礎教育が大切であるか、また誰でも教育が受けられるありがたさを感謝して、その機会を無駄にしないようにしたいものです。江戸時代の末から明治の初めに南千住の金持ちの子弟は小菅村の正覺寺の小菅縣立学校へ、その後は千住一丁目の慈眼寺へ、明治三年頃には南千住にも山路学校・村井学校・池谷学校・鈴木学校・薗田学校等が開かれました。学制の発布に基いて明治7年千住学校が勝恵寺内に公立校として開かれ、南千住の子供達も多数通学しました。同一学区内でしたので南千住の人々もその創立に多大な盡力をし、表彰されております。

昔は北千住も南千住も千住大橋を挟んで、一つの街として仲良く生活していたのですが、町制が敷かれて北南に別れてしまいました。しかしこれからは一単位でなく、広く大勢の人と交わりまた仲良く色々な事業をやっていきたいものです。ご協力を望みます。

ではまた。

(仙成こと杉山六郎)第22回  ( 第40号2002年05月 〕