第105回 上野戦争
先日、二瑞小六年生が「今、自分が住んでいる町の歴史を知ろう」とのことで、お仕置場・埋葬地・火葬場・圓通寺と過去の歴史上で暗いとされている部分の場所を見学、学習し大変興味を示し、多数の質問を受けました。その後、各自で学習テーマを決めて、今一生懸命に勉強しているようです。
17世紀に入り慶長8年(1603)徳川家康による天下統一でやっと日本人同士が殺し合う戦争が終わり、平和な時代が二百五十余年の長きに渡り、安定した暮しが続きました。しかし、その後、再び日本人同士が殺し合う戦争が起りました。そのはじまりが慶応4年(1868)1月2日に鳥羽伏見の戦争です。
新政府軍5,000人と旧幕府軍15,000人が1週間ぶ渡り戦いましたが、第15代将軍徳川慶喜が大阪城から逃げて江戸城に帰ってしまい、新政府軍は江戸へと進軍し箱根戦争で勝ち、5月15日の江戸の上野戦争へ繋がってきました。その時、戦場となったのが上野寛永寺で、当時激戦地にあった黒門(「弾コン」が無数に空いている)が明治40年(1907)に圓通寺に移築され修復されました。現在、圓通寺の正門を入って左には、鳥羽伏見戦争・上野戦争・北越戦争・会津戦争・函館戦争等の幕府軍の戦死者の墓、その他新政府軍と戦った人達の石碑群が沢山保存されてます。ぜひ、お参りなり見学なり足を運んで見て下さい。
圓通寺は天王様(素盞雄神社)延暦14年(795)より古い寺で創建が延暦10年(791)と言われています。
林立する石碑群の中に立ち人と人とが殺し合う戦争とは何なのか、なぜ起るのか、たった一人の指導者のために始まる戦争もあり、人間同士が殺し合う戦争について話し合ったり考えたりする良い機会にしていただけたらとガイドして行くたびに思い、参加者の方にも話しています。
ゼイタクな生活でなくても良いですから殺し合いのない安定した平和な暮しが出来れば幸せです。もう、6年生にはもなれば良くわかります。自分の土地の成り立ちやその場に置かれている、また置かれていた物に興味を持ち、学習し考え、そのものの本質を見つけて貰いたいと思っています。
私自身は戦場に行ったことはありませんが、南千住生まれの南千住育ちですから、戦争の恐ろしさを経験し昭和20年3月10日の東京大空襲も体験してます。
昭和19年(1944)11月からサイパン島からのB29大型機による本土の大空襲が始まって12月には南千住の上空にも爆撃機が飛来し、投下されたのは爆弾で大きな穴があいて周囲の家屋が壊れるだけでした。その後は焼夷弾で角型の高さ1m位で直径20cm高熱を出して燃える液体が入っていて何かにぶつかるとフタが開いて辺りに広がり一面を焼き尽くす兵器でした。焼夷弾の夷は「皆殺しの意味」であり、人間を死に追いやる恐ろしい兵器でした。
地域の歴史を学習し、生きていくこと生きていること、その時代に生活した人々の考えや暮らしぶりなどを知り、前へ前へと先に急ぐのを少し止めてウシロを振り返る時間を作るキッカケをしてほしいものです。歴史に学ぶことは沢山あります。
新しいものだけが良いものではありません。古いものの良いことはどんどん伝えていくべきであると思います・
仙成こと杉山六郎 すまいるたうん145号 平成22年6月13日