12月8日は何の日

編集委員(元したまち支局長) 植木幹雄
このコラムが皆さんのお手元に届くころには、すでに七日に紙面化されていると思いますが、「こちら編集委員室」でまた戦争をテーマに書いています。
というのも、ある雑誌か新聞で、今の若者に、八月十五日日の終戦記念日は知っていても、十二月八日が開戦日であることを知らない若者が増えている、という記事を読んだのがきっかけです。試しに、我が社のアルバイトさんに聞いても、半分以上が知りませんでした。うちのアルバイトはレベルが高く、勉強家が多いのですが、聞くと中学、高校とも現代史は受験で出ないので勉強していない、との答え。
「うーん」とうなってしまいました。戦い、戦争の結果は悲惨なものです。ならば、なぜ戦争が始まるのか、いや始めるのかを十分に分析しておくべきではないのか。そんな気がしているからです。
その国の軍隊は、極めてその国の国民性なり、政治的な考え方を反映した組織だそうです。かつてドイツの著名な軍事研究者カール・フォン・クラウゼヴィッツは、著書「戦争論」で、戦争は政治の一手段と指摘しています。政治は、国民性を反映しているわけで、戦争と軍、国民性はつながっていきます。
例えば英国。歴史を調べると、何度も土壇場まで追い込まれながら、最後には勝ち組に残っています。粘り強い国民性に加え、ヨーロッパは常にどこかで戦争が起こっていたわけで、国際交渉の駆け引きに慣れているというか、ナポレオンを破ったワーテルローの戦い、第一次、第二次世界大戦でも、うまく連合軍を組織して、しぶとく勝っています。
米国。徹底しています。世界から見れば新興国ですが、大統領の経歴を見ると、クリントンの前までは、ほとんどが職業軍人経験者です。長くモンロー主義という考え方で、他の国に手は出さないが、手も出させないという専守防衛的な考え方をしてきました。でも、戦いの開き方は、西部劇に詳しい方ならご存じでしょうが「先に銃を抜いた奴が悪役に決まっている」という発想です。ともかく敵に先に手を出させ、大義名分を確保してから戦うというやり方が目立ちます。そのため世論に敏感です。本音はともかく「戦争はしたくないが、やられたからやり返す」という介入の仕方を確立しています。
米国の戦争映画を見ていると、合理性も徹底しています。撃墜されたパイロットを救出するために、海上なら危険を冒してまで十人近くが乗り込んだ救助用飛行艇を出し、しばしば救助艇まで巻き添えになってますが、貫きました。これはパイロット一人を育成するのに、長い年月と予算を必要とするため、パイロットを大事にしたわけで、命の重さは同じなのに、合理性を重視します。また、陸上戦でも孤立した部隊救出で、多くの犠牲者を出しながらも救出する姿勢を見せることで、「必ず助けが来る」ということを兵士全体に印象づけ、危険な戦場に向かわせます。
翻って日本。パイロットは陸上部隊より幾分かは優遇されたようですが、戦争初期を除くとほぼ使い捨て状態。陸上戦に至っては、玉砕に追い込んでいます。
第一次世界大戦(一九一四―一八年)は各国の経済機能を麻痺させ大きな傷跡を残したため、多くの国が参戦する戦争はなくなるだろう。そう言われました。しかしそれから二十年ほどで第二次世界大戦が起こりました。核保有国が増え、今度こそ強国同士の戦争が起こる可能性は小さくなりましたが朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク、カンボジアと複数の国を巻き込んだ戦争は休みなく続いています。日本は辛うじて戦死者を出さずにすんでいますが、これからはどうでしょう。
北朝鮮、中国とアジア情勢が混沌とするなか、安保条約はいつの間にか日米同盟に吸収され、安保条約にある「互いの国の憲法尊重」の条文は骨抜きになりそうです。
民主党政権で、武器輸出三原則の見直しの動きが出ています。実は、今ですら米国の高性能戦闘機には日本の先端技術が採用され、さらに武器輸出が多くなれば、高度な軍事産業は生活用品や電気製品のように中国で安く作ることはできませんから、国内雇用を生むでしょう。同時に武器輸出国ですから、西側の重要な戦力として世界から紛争への介入要望がでてくるでしょう。
十二月八日にこだわるのは、このためです。戦争が始まるときの動き、それは過去の例がそっくり参考にはならないにしても、学んでおいて損はないでしょう。