十月十日の朝刊で、「1964 東京五輪 50年」というタイトルの、2ページ見開きの紙面を掲載しまし
た。私は、この紙面をはじめ、一九六四(昭和三十九)年の東京五輪からことしで五十年を迎えたことに関する
一連の記事の担当デスクを務めました。
十日の見開き特集紙面で、私が気に入っているのが、左下の、閉会式の写真です。日本人の男子選手が、各国
の選手たちに、ちょうど運動会の騎馬戦のように、肩の上に担がれて行進しています。担がれている日本選手
も、担いでいる外国人選手も、とても楽しそうな笑顔です。このときから十九年前、日本が米国などと戦争して
いたことが、うそのようです。
また、右側にある沖縄の写真も印象的です。日本人の第一走者、といってもそこは当時、日本ではありません
でした。聖火を手に走る宮城勇さんは、とても真剣な表情です。戦争で焼き尽くされ、米国占領下の沖縄で暮ら
す日本の若者が、そのときは「外国」であり、しかし本来の自分の国である日本の五輪、その聖火を託された重
みを感じているようです。
宮城さんには、部下の記者が沖縄へ向かい、インタビューしました。十日の特集紙面と、十月六日の朝刊一
面、社会面で記事を掲載しています。
五輪に限りませんが、大きなイベントが終わったとき、よく「大成功だった」と言います。一九六四年の東京
五輪が終わったときも、たぶん、関係者はみな「大成功だった」と言ったことでしょう。
ただ、五輪はふつうのイベントとは違います。トラブルなく終わったとか、盛り上がったとか、そういうこと
をもって「成功」ではないと思います。
私は、今回の取材を通じて、一九六四年の東京五輪は、五十年たった今になって初めて、「成功だった」と言
えるのではないか、そう思いました。
それまでの五輪は、最近も時としてそうですが、開催国が、国の威信、国の強さを世界に示そうという五輪が
少なからずありした。一九六四年の東京五輪も、敗戦から立ち直って復興し元気になった日本を世界に示そう、
という意味合いはあったと思います。ですが、それ以上に示したのが「平和」「友好」だったと思います。「平
和」の本当の意味、真の恒久平和を願う思いを、世界に示そうとした五輪だったのではないか、そう思いまし
た。
それを最も象徴しているのが、聖火リレーだと思います。まだ米国の占領下にあった沖縄を通り、広島原爆が
投下された日に生まれた坂井義則さんが最終ランナーとして聖火台に点火しました。
沖縄戦、原爆投下、敗戦。それからまだ十九年というときです。米国は、原爆投下を正しかったと主張していま
す。そういう時に、このメッセージを世界に発した日本は、すごいと思います。
五十年たった今。日本は近所の国との関係など、いろいろな問題を抱えてはいますが、少なくともこの五十年
間、いちども戦争をしていません。
このことをもって、私は一九六四年の東京五輪は「成功だった」と言いたいと思います。あの東京五輪のメッ
セージは、生き続けていると思いたいです。
そして二〇二〇年、二度目の東京五輪が開催されます。地元の東京で五輪が開催されることは、もちろん嬉し
いことですが、二度目なのだから、前回以上に、その意義が問われます。むやみに大きな施設を建てたり、メダ
ルの数にこだわったりしては、進歩がありません。
ぜひとも、今度の五輪で、いまいちど東京から平和の意義を発信してほしいと思います。そして、その後の五
十年間、さらにその後もずっと、日本、世界に平和が続けよう。そういうメッセージを東京から世界に発信する
五輪にしてほしいと思います。
(東京新聞 社会部 部次長〔前・したまち支局長〕 榎本哲也)