気楽にクラッシック
編集委員(元したまち支局長) 植木幹雄
七月四日、会社の先輩が代表を務めている市民オーケストラのコンサートに行ってきました。市民オーケストラとは思えないほどの腕前で、先輩を見る目が、さらに尊敬に変わりました。 私がクラッシックなんて、と言う人がほとんどで、自分でもそう思います。 私は、音楽はフォークから歌謡曲、ジャズ、クラッシック、シャンソン、ついでに言えば、二代目広沢虎造のファンで、高校時代に全集のレコードまで買っています。が、クラッシックも浪曲も、なーんも分かりません。楽譜も読めなければ、満足に弾ける楽器もありません。基準は、聞いていて面白いか、心地よくなるか、何かしら興味をひかれるか、ただそれだけです。
クラッシックは思った以上に身近で、テレビCMや映画で頻繁に流れます。私が知ったのも、いい音楽なので何だろうと、メーカーのお客様相談室や、映画会社などで教えてもらったものがほとんどです。
下地はあります。中学時代の音楽の先生の授業はレコード鑑賞ばかり、つい眠くなって居眠りすると「多いに結構、名曲を聴けば眠くなるのは人間の本能」と笑い飛ばし、「音楽を難しく考えちゃ駄目。楽しまなくちゃ」。そして、作曲家や指揮者に関する裏話などをたっぷり教えてくれました。指揮者ごとの聴き比べも「へー」でした。
例えば有名なべートーベンの「運命」。偉大な指揮者カラヤンの指揮ですと「ジャッ ジャッ ジャッ ジャーン」とかなり威勢のいいメロディーになりますが、カラヤン以前の最大の指揮者といわれるフルトベングラーは「ジャジャジャジャーン」と、静かながら胸に突き刺さるような指揮になります。楽譜は一緒なのにこんなに違うの?という感じです。フルトベングラー方が楽譜に忠実だそうです。彼は、第二次世界大戦のころ、ナチスにオーケストラの指揮を指示されますが、逮捕覚悟で拒否しています。彼の反骨ぶりが分かります。代わって演奏したのがカラヤンと言われています。 彼の極めつけは、帝政ロシア時代の作曲家チャイコフスキーの「悲愴」で、私にも、ゾクッときます。
前置きが長くなりましたが、四日のコンサートのメーンは、ロシアの天才にして不遇な作曲家ショスタコービッチ(一九〇六~一九七五年)の「交響曲5番」(彼の曲はこれしか知りません)で、別名「革命」。もっとも、別名は、後に他の人が付ける例が多く、彼にとってはあくまで「交響曲第5番」です。 貧しい農民や工場労働者のためにロシア革命を支持しましたが、政治的な理由で退けられ、上演できない時期が続き、評価されたのはこの「革命」以降。しかもこれによって体制派のレッテルを貼られ、彼の独裁者批判精神が知られるのは、ずいぶんとたってからです。 そんなことを考えながら聴いていると、不思議に第一楽章では、悲しいロシアの現実、第二では農民らが帝政ロシアに戦いを挑んだ敗北、第三では死者を悼みながらも新たな戦いを誓う姿が、第四では、ロシア国民が一斉に立ち上がる姿が映画のように目に浮かんできます。作者の意図とは全く違うかも知れません。でも、自由に感じ、イメージをふくらませて、それでいいのだそうです。作曲家の人生や曲が書かれた背景を知るともっと想像力がわいてきます。
有名な作曲家ショパン(一八一〇~一八四九年)にも練習曲ですが同じ題名の「革命」があります。これは、彼の悲しみと怒りが直接伝わってきます。ポーランド人の彼は、帝政ロシアに支配されていた祖国の一八三一年の独立運動が武力鎮圧されたときに、大きく失望し一気に書き上げたとのことです。一説に、この時「神はいないのか、それともロシア人の顔をしているのか(ロシア人なのか)」と書き残しているといわれています。車のCMで流れ、ピアノの激しい旋律が印象的だったので、メーカーに電話して教えてもらいました。 英国の作曲家ホルスト(一八七四~一九三四年)の「惑星」の一部を聴いていて、宇宙を題材として有名なアニメの音楽に似た部分があり、全体を聴いてみたら何となくアニメの世界に入り込んでしまいました。作曲家には失礼かもしれませんが。
幸いなことに、クラッシックは、百円ショップのほか、量販店や秋葉原などでCDが五百円、リサイクルショップのレコードなら百円で手にはいることも多く、「しまった。つまらん」と感じても、そう腹はたたないでしょう。