歴史の重さを考える
編集委員(元したまち支局長)
植木幹雄
コラムの類は、書きたいことが多いと、どの話を書こうかかなり迷います。悩んだ末今回も、やはり歴史にまつわるお話。
十月四日朝刊の外報面にあった短い囲み記事に目が引きつけられました。内容は、ドイツが第一次世界大戦(一九一四~一九年)の敗戦で生じた賠償金のうち、最後まで残っていた利子分七千万ユーロ(約八十億円)を支払ったという記事です。
もう一世紀近くたっています。記事を読んでいると、戦争終結で戦勝国がドイツ弱体化のため、莫大な賠償金を請求し、このためにドイツ経済は混乱、ヒトラー率いるナチスが台頭し、支払い拒否。東西ドイツの統一で、支払いが進み出した、という話です。何しろ一九一四年に一ドル四・二マルクだった為替レートが、一九二三年には四兆マルクを超えるわけですから、これは天文学的なインフレです。中学か高校の教科書で、荷車にお札を積んで買い物するドイツ国民の写真を見た人も多いと思います。それから数年で世界大恐慌です。
戦勝国の欧米列強は、当時多くの植民地を抱え、苦しみながらもブロック経済で乗り切りますが、ドイツ、統一が遅れてあまり植民地のないイタリア、日本が欧米のまねをして植民地の拡大を図り、第二次世界大戦が始まります。でも戦後ドイツは、ナチス時代を国の歴史として総括し、今でも過ちは過ちとして、厳しく律しています。
この記事は歴史の重み。そして、現社会が、長い歴史の上に成り立っていることを教えています。
この記事を読みながら、ふと、ある米国議会決議を思い出しました。一九七五年に南北戦争(一八六一~六五年)で敗軍となった南軍の指揮官ロバート・エドワード・リー将軍の市民権復活決議です。これも百年以上すぎても、ただすべきはただすという「けじめ」を感じます。西部劇の好きな方は、知っているかも知れませんが、南北戦争後の騎兵隊でも、南軍出身者は低い階級に抑えられるなど差別がありましたが、この決議で、南軍側の名誉まで回復されたことになりますから、形の上とはいえ、大きな意味があります。これは勇気ある歴史の修正と言えるかも知れません。
そもそも、リー将軍は奴隷制度には反対の立場で、出身地の関係で南軍を率いたといういきさつがあります。また北軍イコール奴隷解放の正義の味方、南軍が奴隷制度維持の悪役という見方が間違っているのは、その後の歴史が証明しています。
さて、日本。よくわかりません。
ある神社の銅版には、幕末期の出来事として、新政府軍の大村益次郎の紹介のなかで、奥州の乱を鎮めた云々という功績が書かれたまま。
「乱」。うーん。どんな歴史書を読んでも、挙兵したのは新政府軍側で、言ってみればクーデター。「乱」も「クーデター」も正義がどちらにあるのか、判断は極めて難しいところがあります。
しかし、歴史に詳しい方ならご存じでしょうが、現在の定説では戊辰戦争で東北の諸藩が奥州列藩同盟を結成しますが、これは、あくまで新政府軍の標的にされて恭順の意を示す会津藩救済が目的で、軍事的な意味合いは希薄です。でも、攻められたら、戦うか降参するかしかありませんから、「乱」と言われると、歴史観がゆがんできます。
これは個人的な思いもあるので、取りあえず置くとして、問題は国としての歴史観。
尖閣諸島、北方領土問題など、ことあるごとに、政府がうろたえているように見えるのは私だけでしょうか。
ある時、歴史の教授と話していて、日本は歴史に学ぶという姿勢が欠けていること、その場しのぎの判断が多いと指摘されました。その理由は、日本が明確な歴史観を持っていないからだといいます。
確かに、日本という国家の歴史観が、歴史教科書の検定でしかわからないような思いもあります。深謀遠慮、複雑な外交交渉の荒波をくぐり続けてきた欧米には、過去に学んでいるというしっかりしたスタンスを感じます。何故今、こうなっているかを考えると歴史が見えてきます。
今、通勤時間を使って「提督達の遺稿」という本を読んでいます。戦後、旧海軍有史が、提督と呼ばれた少将以上の生き残りの戦史をまとめたものです。でかい上に、上下合わせて八センチ近い厚さの本でなかなか進みませんが、貴重な証言集として読破するつもりです。最近、終戦記念日より、太平洋戦争開戦に至る道筋を調べるほうが、重要な気がしてならないからです。