歴史に埋もれた逸材

編集委員(元したまち支局長) 植木幹雄
また歴史の話ですみません。理由は紙面化した記事への反省からです。
歴史の中で大きな役割を果たしながら、ほとんど名前が知られていなかったり、功績自体が知られなかった人物が数多くいます。歴史の面白さの一つは、そんな人物を追って資料を探し出し論文なり、小説なりにして世に送り出すことかもしれません。
四月二十一日の「あの人がいた街」で、郷土福島県会津の英雄佐川官兵衛を取り上げました。反応もあり「歴史に詳しい方だが、こんな人物がいたのは知らなかった」という声がほとんどでした。
覚えていない方のために簡単に説明すると、佐川は幕末の会津藩物頭(侍大将)三百石の出ですが、学問優等、剣と馬術は免許皆伝。戊辰戦争(一八六八~六九)では、初戦の鳥羽伏見の戦いで会津藩士のみならず、統制のとれない幕軍の一部も率い武力に勝る「官軍」に槍と刀の部隊を率いて大活躍し、千石取りの家老に出世。
会津の戦いでも、千人の会津藩士らを率いて「官軍」を押しまくった猛将です。明治七年に、警視庁に三顧の礼で迎えられ、十年の西南戦争で戦死しているのですが、百三十年以上たった今でも、戦死した地、熊本県南阿蘇村では慰霊が行われています。さらに佐川の資料館、顕彰会があり、西南戦争の碑二十二のうち、十八が佐川をたたえるものと、まるで熊本の英雄扱いされている、という話です。熊本での扱いは、にわかには信じがたいほどです。
正直言って書ききれない部分があり、読者の方にもわかりにくかったと思いますが、書く方も悶々(もんもん)としました。
佐川の名は、知らなかった人がほとんどでしょう。というのも、ほとんど資料がないのです。
佐川は、江戸藩邸詰めの若い頃、からんできた旗本を斬り殺し、長期間会津に戻され謹慎を続け、戦雲渦巻く京都に呼ばれたのは慶応二(一八六六)年。藩主松平容保(かたもり)はその四年前(六二年)から京都守護職として京都に赴任し、藩士や新選組を率いて名を上げており、歴史の舞台に登場するのが遅すぎました。
明治七(一八七四)年に、仇敵薩摩藩士主体に設立された警視庁に入庁しますが、わずか三年後の西南戦争で、敵将との一騎打ちのさなか銃弾に倒れています。このため、警視庁にも資料がありません。
一時はお手上げ状態。考えてみれば、幕末の会津にはドラマを持った人が多すぎました。しかも、敗軍のため資料も多くが処分されたり、朝敵の汚名で研究するのもはばかれる時代が戦後まで続きました。白虎隊を始め、容保公、一時は坂本竜馬暗殺犯として名前の挙がった剣の使い手、佐々木只三郎、兄は陸軍少将のまま、高等師範学校(現筑波大)、女子高等師範学校(現お茶の水女子大)の校長、弟は東大、京大、明大の総長を務め、妹が女性初の留学生という山川きょうだい。一九〇〇年の、北京の各国大使館が義和団に包囲された事件では、まだアジアの後進国あつかいだった日本ながら、八か国の少人数の軍を指揮して大使館関係者のみならず、逃げ込んできた三千人もの中国人キリスト教徒の命を救い、世界から「コロネル・柴」と絶賛され、日英同盟の基礎を築いた後の陸軍大将柴五郎。盲目ながら、早い段階で議会制民主主義の考えをまとめ、新島襄に協力し、同志社大学設立に尽力した山本覚馬などなど。資料の少ない人物はどうしても、後回しになってしまいます。
今回、古書店から入手可能な警視庁の公式歴史記録四冊を購入しましたが、佐川の名前は、殉職者一覧に一行あるだけ。結局十冊以上の関係本を読み、最も頼りになったのが、直木賞作家中村彰彦さんが、段ボール何箱もの資料や、子孫からの聞き取りでまとめた「鬼官兵衛烈風録」でした。
中村氏の取材力は、一流の新聞記者以上でしょう。事実と事実の間にある空白部分も、綿密な資料分析から推論していきます。
鬼官兵衛烈風録は、角川文庫などをへて何カ所か訂正を反映させた最新版が「歴史春秋社」=0242(26)6567=から1600円で出ています。中古本の方が高いので、最新版がお勧めです。
氏は、このほかにも歴史に埋もれた人物を数多く世に送り出しており、作品は娯楽時代小説とは異なり、史実を追及しながらストーリーを展開していくため、楽しみながら歴史が学べるのがいいところです。
前から、氏の作品は読んでいましたが、今回取材させていただき、かつファクスで参考文献を紹介してくださるなど、有名作家でありながら、気さくな人柄にも感激し、二十冊ほど買い込み、少しずつ読み続けています。