今回は、シンポジウムなどで一緒に仕事をしている事業局の佐々木が、緊張続く朝鮮半島、しかも板門店を、勉強のため私的に訪問したと聞き、特別寄稿してもらいました。南千住の住民です。
(植木幹雄)
板門店ーそこは韓国と北朝鮮の軍事境界線上にある、分断と冷戦の最前線です。ここでは南北がお互いの主張をぶつけ合い、時には紛争も起きています。そんな朝鮮半島分断の実態をこの目で見るのが今回の目的でした。
板門店見学は旅行前から大変で、遅くとも一週間前にはインターネットで申し込みます。しかし申し込んでからもツアーが突然中止になる事があります。理由は、南北の会談が行なわれる、韓国と北朝鮮で軍事的なトラブルが発生したなどです。最近では昨年十一月の延坪島砲撃事件で一週間にわたってツアーが中止になりました。時には前日や当日の朝に中止されることもあります。
加えて板門店観光にはさまざまな制限があります。まず、年齢制限。十歳以下の小児は入れません。また、板門店訪問二十四時間前からはアルコール飲料禁止です。
服装にも規制があります。半ズボン、革ズボン、ミニスカート、ジャージ、ノースリーブやTシャツを含む襟なしシャツ、サンダル履きはダメ。さらに、軍服または似たような服装、「USA」などの文字や星条旗が描かれていると、ツアー受け付け時や、板門店に入る前に軍による服装チェックが行なわれ、不適切だと判断された場合は別の衣服に着替えさせられます。以前はジーンズも完全禁止でしたが、あまりにもジーンズ姿の人が多く、現在では穴があいている・破れているもの以外は着用できます。こうした点をクリアしてようやくツアーに参加できます。
午前八時出発。まずはイムジン川手前にあるイムジン閣へ。ここには展望台と自由の橋、朝鮮戦争(一九五〇~五三年)時に破壊された蒸気機関車、一九八三年にミャンマーのラングーン(現ヤンゴン)で全斗煥大統領一行に仕掛けられた爆弾テロ事件の慰霊碑、故郷が北にあるために会えない家族へ祈りをささげる望拝壇があります。旧正月や秋の旧盆には多くの離散家族が訪れ、祈りを捧げます。ここまでは韓国人を含めて誰でも自由に訪れる事ができます。
イムジン閣で専用バスに乗り換え、統一大橋から先は許可を受けた外国人ツアー観光客と朝鮮戦争前から居住している人以外は入ることが出来ません。
パスポートのチェック後、ここから近い都羅山地区には第3トンネル(北朝鮮から脱出した測量技師の証言により発覚した)、都羅展望台(開城工業団地も見える)、都羅山駅(南北が自由に行き来できるようになるとここが北朝鮮への出発駅になる)があります。
ここで、他の旅行代理店の客と合流しガイドも交替します。昼食を取りながらパスポートチェックと別の専用バスの座席指定を受けます。ソウルから添乗して来たガイドとはお別れです。
バスが出るといよいよ板門店の管理区域。道の両側には「地雷あり」の標識などがあり、緊張感が一気に高まります。
しばらく進むと国連軍も駐屯している「キャンプ・ボニファス」がありますが、ここの入口で私たちは三十分ほど足止めされました。「現在作戦中のため午後三時までは入れない」との事です。ここからは韓国軍兵が警護役としてバスに乗り込んできて先に進んでいきます。
さらに進むと小さな建物があり、パスポートと服装チェック。さらに、国連軍から渡される誓約書(要約すると「ここではどんな事が起きるか予測不可能なので、見学中に起きた事故に関して国連軍や大韓民国には一切の責任を求めません」)にサインします。南北間の戦争がまだ休戦状態であることを物語っています。
板門店についての説明を受けた後、見学者であることを示す「国連軍ゲスト」のパスをつけます。一連の手続きが終わって、またまたバスで移動。
いよいよ韓国側の「自由の家」を通って板門店休戦会談場です。ここでも厳しい注意事項があり。二列で歩く事、ビデオ持込禁止、許可された場所以外での写真撮影禁止などの注意を受けてから休戦会談場に入ります。
この会談場の中では五分位写真撮影が許可され、建物内に限り北朝鮮領内にも入れます。私も窓の外を北朝鮮側から撮影しました。会談場から出て自由の家まで移動すると、ここでも撮影許可が出たので、写真を撮影したら北側の建物から北朝鮮兵が双眼鏡で私たちを見ていました。
その後は捕虜交換が行われた「帰らざる橋」を通って土産物店へ。お土産には古くなった鉄条網や南北統一を願った各種商品が販売されています。
土産店を出てバスに乗ると店員さんや添乗した韓国軍兵士が笑顔で見送ってくれたのには驚きました。これまでの緊張がうそのよう。
今回板門店を訪れ、まだ戦争は終わっていないという事。南北とも統一を声にしていますが、実際には道のりはまだまだ遠いと感じました。この日の韓国国内のトップニュースは「東京新聞と金正男氏の単独インタビュー」でした。北朝鮮・金正日総書記の長男正男(39)に滞在先の中国南部の都市で東京新聞がインタビューに成功したことを伝えたものでした。異国の地で東京新聞の存在感を誇らしく感じました。