新旧大学考                 編集委員(元したまち支局長)  植木幹雄
先日、母校の懇談会に行ってきました。二十年ほど前から毎年一回、マスコミに就職した卒業生を集め学長、学部長、理事らと懇談します。最初はOBだけだったのですが、ここ二、三年は間口を広げ、他大学卒業生にも参加を呼び掛けています。当初は、母校の在り方に卒業生が意見を述べる場だったのですが、少子化時代に向け、学校の存在をアピールする性格が強まってきたためでしょう。
今年の集まりでは、三十年ぶりに、O先生にお会いしました。O先生の師匠格のH先生とは、卒業後も何度かお会いしていますが、何故かO先生とはすれ違いばかりで、ご無沙汰していました。
当時は若手の行動派助教授だった先生も、髪は整髪に苦労しているだろうなと思うような薄さになり、スマートだった体型も、大きく変化して(これは私も何も言えません)ましたが、情熱的な話しぶりは相変わらずでした。
この日実感したのは就職の厳しさ。今は、二年生から就職活動をする者が多いと聞いていましたが、学校関係者の話でどうやら事実らしいと知りました。私たちの時も、第二次オイルショックで職がない時代でしたが、信じられないくらい就活も授業も頭にない生活でした。就職の会社訪問解禁が四年生からと決められていたので、短期間バタバタした記憶はありますが、あまり覚えていません。就職より四年で卒業できるかどうかが問題、という個人的事情もありましたが。
入学したのは、団塊の世代による学生運動が終わったころで、戦場となったキャンパスが後遺症に苦しんでいた時期でした。自治会もサークル連盟も崩壊したまま。学生が集まれる場所も、ほとんど閉鎖されていました。
正常化に向け、立て直しを進めていたのがH、O両先生でした。たまたまH先生が、私たちのいた探検サークルの顧問だったこともあり、お手伝いする格好になりました。
再建案は学生に作らせ、先生は教授会、理事会で後押しするという学生主体の再建でした。「連盟は学校が作ったらアリバイ的な再建だ。形から運営、トラブル処理も君たちで考えなければ意味がない」という先生の考えからです。
みんなが授業にも出ないで走り回った結果成功し、文化系三連盟とも再建できましたが、再建の実現以上に、学生に任せ「責任はオレがとる」と言ってくれたH、O両先生の豪傑ぶりが感激でした。
一方で、クラス有志の勉強会も盛んで、私は哲学のクラスでしたが、近現代史、現代詩、軍事学などの先生に講師を頼むと、大概引き受けてくれました。メンバーは多くて十人、少ないときは五人くらいでも、ゼミ以上の親密さで指導してくれ、ついでにお酒もおごってくれました。
授業も型破り。「私のドイツ哲学を学んでも、社会ではあまり役に立たないと思う。自分の興味あるテーマを選び、助言が必要なときだけ授業や研究室に来るという形でも構わない。私の知らない分野は別な教授を紹介する」なんて先生もいました。結局私はこの先生に自殺・心中、軍人の自決、軍事史と三年間お世話になりました。
個人的には、三年時に父が倒れ、学費が続かず退学届けを出しに行ったときも、学費、生活費とも手はずがそろっているのを知り驚きました。結局世話にならずにすみましたが、学校は典型的なマスプロ。私は授業に出ない劣等生なのに。形は学校の制度を利用するようになっていましたが、卒業後これはH先生の配慮と知りました。先生は決して恩着せがましく表には出ず、何人もの学生を助けてくれていたようです。
今でも時折キャンパスを訪問します。誰でも使えるパソコンルーム、トレーニングジムなど、いたれりつくせり。一方でシンポや集会への参加を呼び掛ける立て看板も張り紙もなく、サークル活動も低迷しているようです。学生が先生の授業を評価する制度もできたとか。先生と学生が授業を離れて接点を持つ機会も減ったようです。
長引く不況と、少子化による受験生確保の熾烈化、厳しい就活。三十数年という年月は当然大学の存在意味を変えただろうし、仕方がないと考えています。
この不況下、学生は仕送り減でアルバイトに追われながら、いい成績を取るために先生の講義をコピーのように頭に入れていく。私らのときの就職難、またアルバイトに追われる生活も同じだけど、今はレベルが違いすぎる。でも、学問も、生き方もコピーじゃつまらない。頑張れ苦学生。