啄木とジョーの願い

編集委員(元したまち支局長)                 植木幹雄  皆さん、行政刷新会議の事業仕分けの記事は読んでいましたか。対象となった公益法人などのトップの回答は、何度も国民を唖然とさせました。「私は、君ら庶民と違うんだ」といわれているように感じたのは私だけでしょうか。  これだけの無駄が公然とまかり通り、官僚と周囲の一部の企業に流れていたのかと思うと、何故、どうしてここまで続いてきたのか、そちらの方に興味がわいてきます。貧困や不正、貧富の差の広がりを思うとき頭のなかに二人の人物が浮かんできます。  一人は私の好きな歌人(詩人)石川啄木です。類無き才能を持ちながら、貧困のうちに二十六歳という若さでこの世を去っています。ここ数年、彼の歌の中でも、しばしば思い起こす句があります。    こころよく    我にはたらく仕事あれ    それを仕上げて死なむと思う          (一握の砂)  このころ、啄木は東京で新聞社の校閲係として働いており、それなりの収入がありましたが、その日の暮らしに追われて、本来書きたかった小説を書けない苦しい思いを歌ったものといわれています。しかし、背景抜きにそのままこの句を現代に当てはめてもぴったりします。働きたくても職のない若者、中高年の切ない、せっぱ詰まった思いが私には浮かんできます。というより、そんな人たちのための句と考えた方が素直に理解できます。  事業仕分けの席で開き直る人たちには「負け犬」の句にしか理解できないでしょうけど。  啄木の第一歌集として「一握の砂」が出版されたのは一八一〇年。ちょうど百年前のこと。なのに何の違和感もありません。  当初、啄木は社会主義には批判的な見方をしていたといわれていますが、死の前年一九一一年に書いた散文詩八編「呼子と口笛」の「はてしなき議論の後」で「(われらは)民衆の求むるものの何かなるを知る」と貧富問題の深刻さを認識しながら、行動に移さない自分や青年知識層へのいらだちと嘆きを作品にまとめています。  さらに「ココアのひと匙」ではさらに「おこないをもて語らんとする心を」と直接行動にまで言及しています。  これ以上は、各自の解釈によりますし、是非ご一読をお勧めします。

同じ頃、米国ではフォークソングを武器に政府や大企業と戦った若者がいました。スエーデン移民のジョー・ヒルです。啄木より七歳年上です。四十年ほど前に映画になり、有名な女性歌手ジョーン・バエズが主題歌を歌っていますので、団塊の世代以上の方なら知っているかもしれません。

当時、米国も労働環境は劣悪で、貧富の差も今より大きく、庶民は苦しんでいました。「天国に行けばおなかいっぱい食べられるから、働きましょう」と歌って伝導する宗教者に対抗し、「今食べられないことが問題なのだ」と厳しい言論弾圧のすきをつき、歌に託して貧しい人たちに社会の矛盾を訴えました。しかし、無実の罪で死刑宣告を受け、当時のウイルソン大統領やヘレンケラーらが疑問の意見を出すなか一九一五年に執行されました。

映画の主題歌は、もちろん私の苦手な英語で、しかも四十年前に見た作品ですので、要約でかつ不正確かもしれませんが、こんな歌詞でした。

おいら、ジョー・ヒルの夢を見たんだ

それでおいら、言ってやったんだ

お前は十年前に死んでるんだぜ

そしたら、奴は言った  オレは生きている

生活を守ろうとする者をだれも殺せない

アメリカで生活を守ろうとしている人たちが

いれば  オレはそこにいる

確か、当時私は中学生でしたが、主題歌のメロディーもシーンの何カ所かも覚えています。それほど印象的な映画でした。

貧富の差と不正な蓄財は最も危険な社会現象です。争い、さらなる社会不正を増やします。特権を背景にぬくぬくと「不正」な収入を得ている天下り族と周辺企業。しかし追及する労働・社会運動は不景気の中沈静化しています。  じゃあマスコミはどうなんだ。そんな声が聞こえてきそうです。東京新聞は、懸命に答えようとしています。啄木やジョーのようにはいきませんが。