◎震災と原発事故

編集委員(元したまち支局長)    植木 幹雄

 

最初に断っておきますが、ここで指す東電とは会社としての東京電力であり、職員全体を指すわけではありません。福島第一原発事故で、劣悪な環境の中「見えない」危険と戦いながら作業を続ける作業員の方たちには、最大限の敬意を表したい気持ちです。ご承知の通り私は福島県出身者。トーンの強さはお許しを。

何もなかったかのように立ち並ぶ家。そして四季の草木は咲き続ける。何百、何千年まえから変わらぬように川が流れ、山も季節の移ろいを見せるでしょう。だが、そこに人影はない。野生化した牛、やせ細った犬や猫が徘徊するだけ。原発付近住民の避難後、こんな風景にならないと誰がいえるでしょう。

東電は、六―九カ月で原子炉を安定させるという工程表を発表し、菅直人首相も年明けには「判断する」とのことですが、あくまで、帰宅がいつになるかの判断。来年帰宅できる保証はありません。四月十三日に菅首相と松本健一内閣官房参与との間では「十年住めなくなるのか二十年か」との会話があったとされ、こちらが本音なら、はっきり示すべきです。

十万人近い人たちが住み慣れた故郷、先祖代々の土地と家を追われ、親しい人たちとも離ればなれの生活を強いられます。田舎という土地柄から、転居経験者も少なく、今住んでいる場所がすべて。帰れるまでの期間も分からない。胸が張り裂けるような思いでしょう。原発は、国と全国の電力会社が二人三脚で進めてきました。だが、これまでの国と東電の発言を聞いていると、互いに責任逃れし、当事者意識が全く感じられないのは私だけでしょうか。

今回、自分の無知さを思い知らされたのは、日本の原子力行政には、原発を厳しく監視する機関がなかったということです。推進役の経済産業省をチェックするはずの原子力安全委員会、原子力安全・保安院までが東電と互いに結びつきあっているのでは、全く意味がありません。

東電は、事故直後「千年に一度の地震で想定外」を連発しましたが、その後、危険性を予測する指摘を無視してきたことが次々と明らかになりました。この「千年に一度」は、運が悪いと考えがちですが、原発は既設のところに次々と新規の原子炉が造られ、福島第一も新規原子炉が計画されています。今の原発は当初三十年と言われた寿命が、経済性からどんどん延ばされ六十年になり、次の原発も六十年、重なる期間も考えても百年あれば、千年に一度の確立は高くなります。日本には十七カ所五十四基の原発がありますが、百数十年周期で大地震が確認されている場所に立地していたり、地震そのものが、思いがけないところで発生するケースもあり、当然日本のどこかで起こる確立はさらに高くなります。

何しろ、原発が商業運転を始めてまだ四十年足らずで、大型地震が何度も起こった日本の歴史の中では極めて短い期間。地震が必ず事故に結びつくとは言わなくても、万が一が許されない原子力発電が「地震多発国」日本に向いた施設なのかどうか考えさせられます。

今回の震災では岩手、宮城、福島だけでも一万五千人の死者と一万人の行方不明者、家屋の全半壊十二万五千戸という被害を出し、避難者も十二万人、基幹産業の漁業も港、船舶の被害が九割に及びます。ですが、復旧作業は遅遅として進まず、被災者は苦しい生活を余儀なくされています。一方、原発は今後の被害拡大防止が緊急、かつ絶対の課題で、政府も二面作戦を強いられ、復旧の足かせになっているのは明らかです。原発所在地を震災が襲ったときの怖さ、悲惨さが浮き彫りになりました。制御下の原発は、安価でクリーンかも知れません。しかし一度制御不能になると、長期間大気を、大地を、海を汚し、人々を不安に陥れます。現在、被害対策で電力料金の値上げ、税金投入も論議されていますが、適切な処置かどうか、国民もしっかり判断すべきでしょう。

原発に変わるエネルギーを短期間で生み出すのは至難の技。太陽光、風力、地熱、波力発電も、商業運転にはまだまだ規模も小さく、エネルギー効率の問題があります。また、太陽光は広大な敷地を要し、風力は低周波など解決すべき点も残されます。しかし、日本の技術力は、困難にぶち当たれば当たるほど、世界が驚くほどの底力を発揮してきました。きっと、画期的な技術を開発すると信じています。そうすれば、平和国家として、安全エネルギーのプラント輸出の道も拓けそうですね。