◎会津のジャンヌ・ダルク

再来年、二〇一三年のNHK大河ドラマが決まりました。山本むつみさん作の「八重の桜」です。震災に加え福島第一原発に苦しむ福島の人を励まそうと、福島人を取り上げたそうな。主人公は、会津藩士の家に生まれた山本八重子(八重とする文献も)=一八四五~一九三二年=です。京都の同志社大学の創立者新島襄の妻ですが、ほとんど知られていない人物といえましょう。

そこで、大河ドラマに先駆けて、八重子の人物像を追ってみましょう。

八重子は、会津藩砲術指南役山本権八の三女として生まれました。山本家の石高はよく分かりませんが、武田信玄の軍師山本勘助の子孫と言われ、代々兵学者の家柄です。八重子は少女の頃から負けん気が強く、おてんばだったと伝わっています。

彼女が本領を発揮したのが、一八六八年の戊辰戦争、鶴ケ城攻防戦です。兄の覚馬は会津藩きっての秀才と言われ、洋式兵学、砲術の指南役だったため、八重子も銃の扱いを熟知し、白虎隊の少年たちにも、内緒で銃の扱いを教えたと書いてある本もあります。

城の周りを「新政府軍」に包囲される中、八重子は夜に城を抜け出て、スペンサー銃と呼ばれる連発の新式銃を手に、ゲリラ戦を展開したり、砲兵隊の指揮をとったりと活躍し、のちに「会津のジャンヌ・ダルク」と呼ばれました。なぜ彼女がこのような行為に走ったのかは、当時の戊辰戦争の状況をみる必要があります。あくまで武力をもって会津を屈服させるという西郷隆盛の主張で、新政府軍は多くの部隊を、各方面から東北に侵攻させました。東北各藩は奥州列藩同盟を結んで対抗しましたが、各地で破られ、会津藩士の多くは現在の新潟や、福島県白川、栃木県日光方面に主力部隊を送り込んでおり、会津藩内に残るは、老人と少年、年少者、女性がほとんどでした。京都守護職だった藩主松平容保とともに京都に滞在していた覚馬も、藩主の帰国後も目の病気のためほとんど失明状態で、京都からは動けませんでした。

このため、会津の地はこれらの人々が守らざるを得なくなっていたのです。老人はもちろん、少年たちの白虎隊、今で言えば小学生くらいの子どもによる幼年隊も、戦場には出さない前提に編成されていました。女性たちも、藩の反対を押し切って、中野竹子らによる娘子(じょうし)隊がつくられ、なぎなたを手に多くが戦死しています。

会津の女性は、普段はしとやか(当時は?)ですが、いざとなると気丈になり、城の攻城戦の足手まといにならないようにと、自害した者が数多くいます。

話を進めるのに、覚馬の存在は欠かせません。覚馬は、失明状態のまま新政府軍の捕虜となり、監禁されていましたが、幼年時から大人が驚くような秀才でしたから、監禁中に新政府軍に対し、新しい時代の政府のあるべき姿をまとめた建白書を出しています。三権分立、二院制の議会制度、廃藩置県、女子教育の必要性から軍制度、太陽暦の採用、救民制度と内容は 多岐にわたり、西郷隆盛をうならせたといわれています。しかも、早くから構想を練っていて、坂本竜馬の船中八策よりも先に、議会の必要さを説いていたとも言われています。この当時は画期的という言葉すら超えたものです。このため新政府軍も丁重に扱い、京都府顧問、京都府議会議長、京都商工会議所会長を歴任したほどです。

会津の敗北後、八重子は兄を頼って上洛。覚馬の友人新島襄と結婚するわけです。新島は同志社大学を創立しますが、覚馬は最大限の援助を行い、覚馬の名は、同志社大学の歴史に正式に刻まれています。

さて、八重子ですが、新島の影響でキリスト教に傾き、この当時では皆が驚くような「男女同権」の行動を取り、新島も容認していたようです。新島の死後、八重子は全財産を同志社に寄付、夫の教育者としての夢を支えました。

とまあ、こういう具合ですが、小説は作家のイメージが大きく入り込んでくるうえ、テレビの脚本でもさらに変わります。さて、ドラマがどんな展開になるか楽しみです。

閑話休題

戊辰戦争後、会津の人間は全国各地に散らばります。関東大震災の際、真っ先に救援物資と人材を送り込んだ大阪市の市長は会津人だし、身近なところでは、明治初期、現在のあきる野市にあった小学校の教員のほとんどが元会津藩士で、住民たちは敬意を込めて会津藩校「日新館」の名を取り「日新(小学校)」と名付けたと聞きます。

今回の福島第一原発事故では、十万人近い人々が、県内だけでなく全国各地に避難し、若い人の間では「もう福島に戻ることはないだろう」と話す人も多いと報道されています。

江戸が無血開城になり、代わりに激しい戦いが繰り広げられた福島を中心とした東北。関東に電力を送り続けた末、離散を余儀なくされた福島原発周辺の多くの人々。私には、どうしてもだぶって見えます。福島に戻れなくても、たくましく生きてほしいと願うだけです。

(注)今回は、過去に読んだ各種歴史書と、福島県会津若松市の市史を参考としています。このため、異説も多いことをお断りしておきます。

 

編集委員(元したまち支局長) 植木 幹雄

すまいるたうん184号