第25回 今昔性病

敗戦前の昭和10年(1935)代のコツ通り家並地図をみると、天王さまから南へ下ってくると右側に斎藤酒店さん・その並びに当間歯科さん・更に下ると今の太陽信用金庫本店の駐車場に柴田病院と云う大きな敷地を占める医療機関があり、その隣が世界堂の鳥海さん・その先がゆうき屋の吉羽さんと続きます。そして右へ曲がる道が現在の太陽柳り通りで、当時は道路巾が今の半分ぐらいでした。自分たちの周りに病院があることは生活していく上で心強いものです。『柴田病院』と聞くと昭和初期頃に南千住で生活なさってた方はご存知の名前だと思います。

明治4年(1871)十月の新聞に「今般小菅縣管内千住小塚原に黴毒(梅毒)病院を設置する」と出ております。その場所が柴田病院の前身ではと推察します。明治・大正・戦前の昭和・そして戦後の昭和三十年後半まで存続しました。政府が病院を設けるにはこの場所が一番よかったのではないでしょうか。飯盛屋が千住大橋南詰より南へ延びていきましたが、当時まだ南の先のほうには小塚原火葬場があり小塚原刑場があり回向院のお寺がありで、人が住んでいたのはコツ通り北半分ぐらいで今のとんかつやの松竹さん手前まであとは人家なしでした。そこで政府は人家の外れに黴毒院を九月一日より開院し、ニ階建ての検査場を作り六日に一回の割で一週させたようです。開院一ヶ月後の新聞の大見出しには「人倫の大道を賣女に論告」と出ています。当時も性病が、ちまたに蔓延し社会問題となっていたようです。

厚生労働省の調査発表では中学三年女子の性交経験率が8%・高校一年女子が23%と激増してます。一方、東京都幼小中高性教育会の一九九九年調査では高校三年の性交経験率は男子38%女子39%しかし「いつも避妊する」という人は男子38・8%女子23・3%。恐ろしい数字ですね。昔は横痃(よこね)「足のまたのリンパ腺がはれる」が出て(かさつかき)「身体全部に発疹が出来る」になれば死と言われた。明治から100年たってもまだ性病の感染対策が遅れ、これから先も若者が早死していくのかと思うと背すじが寒くなります。        第 43 号〔02年08月 〕