第52回 公衆衛生の発展

今から146年前の安政5年、江戸を初め全国的にコレラが大流行しました。コレラはコレラ菌によって小腸が侵されて激しい下痢と高熱を伴い死に至らしめる急性伝染病です。

明治まで、コレラは「コロリ」と言われて、人々に恐れられ恐怖のどん底に陥れました。記録によりますと、7月27日より9月23日までの55日間で26万8千57人が死亡し、江戸市中では16万119人が亡くなりました。南千住小塚原火葬場では6万3千78人を荼毘(だび)に付しています。当時は、石積みの釜で薪で死体を燃やしており、その設備の悪さに時間がかかり悪臭は出たはずです。明治に入り、ドイツから鉄製の死体焼却装置を購入しております。

当時は、まだコレラがどのような原因で発生し、死に至るのかが解明されておらず、その治療方法が確立されず、ただ収まるのを待つだけでした。

漢方医の治療法ではなす術も無く「石炭」を撒き「お酢」や「からし」を身体に塗っておくだけで、手の施しようがなかったのです。また、当時の流布した錦絵を見ると水道の水汲み・魚河岸のイワシの売買・下し薬や・屋台店の天ぷら・夜なきそば屋が暇になった商売で、反対に超多忙の商売は一番が火葬三味場・早桶屋の職人・湯灌場で古着買屋・腹按摩療治屋・穴堀の寺男・薬店の調合師・参詣の花売ばばあと出ています。「飲み水」「鮮度の落ちた魚介類」「夜の屋台の天ぷら」「夜なきそばや」が市民も怪しいと思ったのかもしれません。吉村昭さんの小説「ころり」にも当時の市民が病気に対していかに無知であったかが書かれています。腕の良い医者が治療のために寝食を忘れて病院宅を飛び回って仕事しているのを、市民は医者が行く先々で死者が出るので、「あの医者は死霊を持って来る」と噂が広がり市民が大勢かかって殴り殺してしまうという筋です。

その後、病気発生の病原菌が見つかり治療法も発展して、西洋医学が広く学ばれ始め、学校教育の市民までの参加が出来るようになりました。この後40年位で公衆衛生思想が一般市民に浸透して医学の発達と共に急性伝染病が防げるようになりましたが、今度は慢性病の結核病へと移って行きました。

百余年が経過しても次から次へと新しい病気との闘いは続いています。日頃の生活が病気を作っている面が現代は多いようです。注意して生活をしていきましょう。

自分が狭心症を患ってこの発生原因が動物性脂肪と砂糖の取り過ぎ、過労働、野菜の摂取不足、ストレス等日常生活の積み重ねであることが解りました。痛い思いをしないように肥満にならないよう一日一回は体重を計って食事量を調整していきたいものです。 平成16年10月