第48回 続・こつかっぱら

前回、小塚原にまつわる地名が無くなってしまったと申しましたが、まだコツ通りには小塚原刑場で、浅草側が小塚原延命寺とに分けられております。

現在はJR常磐線を境として北千住側が栄行員で、浅草側小塚原延命寺と分けられております。

荒川ふるさと文化館で(南千住図書館と併設)専門調査員の亀川先生の調査結果では、元は一つであった刑場が明治28年(1895)隅田川貨物駅開通で分断され、そのうえ昭和36年(1961)に地下鉄日比谷線が開通し、今のような狭い敷地になってしまったそうです。

江戸時代、南は鈴ヶ森刑場(海に面して半円型)、北は小塚原刑場(奥州街道に面して間口60間約110m、奥行30間約60mの広さがあり、お地蔵様と法華庵の小さな庵と非人小屋とどたん場あり)が古文書に描かれております。

安政5年(1858)のコレラ流行時に刑場前を通って小塚原火葬場へ死人を棺桶に入れて列をなして運んでいる絵も描かれています。現在では想像もつかない風景を見ることができます。

「絵」は荒川ふるさと文化館の1階郷土学習室にあり、また色々な資料を閲覧できますので、ぜひ私達が生活している町の歴史を学んでいただき、日常に役立てていただきたいと思います。

小塚原刑場で死んだ人の数は20万人余と記録されていますが、先の常磐新線のトンネル工事の際に土手の盛り土を撤去した後のおびただしい白骨の山がそれを実証していました。

7月31日(土)にそのトンネルウォーキングがあり、歩きながら私は時の流れを痛感し、手を合わせ頭を下げ祈りを捧げました。

その後のコツ通り周辺の発展は、近代産業の拡大とそれに伴う人口の増加で、町の様相も経hh化し素晴らしい商業と工業の町へと発展していきました。             ではまた

まいたうん67号(2004年8月20日発行)