第21回 読み、書き、ソロバン(計算)はいつの世でも大切

先月号でお知らせいたしました、飯盛旅籠伊勢屋庄八さんのお店は、コツ通り西側で現在酒類商を営んでおられる斎藤酒店の場所がそうである、と斎藤さんより指摘がありお話をうかがいました。お店は五代の祖先が買い取ったそうで非常にコツ通りでは古いお家柄で、当主の斎藤さんは多方面に渡って各種団体の長をなされて大変お忙しい日々を送っておられますが、お店へお立ち寄りの節は古い話などお聞きになって下さい。

伊勢屋庄八は新潟県十日町市稲葉(村)の児玉家の人で史料の古文書が手元にきたのは、庄八さんの妻「たよ」さんが稲葉村の「喜三治」さんに出した手紙が現在まで保存され、今の児玉家から荒川ふるさと文化館に問い合わせあり、その成立がわかったのです。当時を考えると「たよ」さんが文字が読め文面を理解することができたこと。また「たよ」さんが筆墨紙を持てる経済力があったことがわかります。その時代に文章が書け、文を理解し文字を書く道具をもっていたことは大変なことでした。

江戸から新潟へ書状が運ばれたのは一般的にも飛脚制度が発達し、飛脚がとどけたのです。江戸時代コツ通り千住宿にも伝馬制度と共に飛脚制度も完備され人々の暮らしをより豊かにしていたのです。

江戸の頃、武士は文字を習いましたが一般の人が文字を習うことは大変お金がないとできませんでした。コツ通りの商家の子供達は北千住の寺子屋まで文字を習いに通いましたが、その後南千住周辺にも二階堂・松本など寺子屋ができ、教材として「いろは」・「商売往来」・「庭訓往来」など教えそれより程度の高い「四書五經」等を教えたようです。

明治に入り寺子屋が私立学校の形態を取るが南千住では明治20年(1887)に瑞光小学校が公立校として創立され、人々に教育が普及するようになりました。学校の成り立ちなど次回に書きます。ではまた

(仙成こと杉山六郎)まいたうん2002年3月39号