第20回 古文書(こもんじょ)を読もう

先月より荒川ふるさと文化館で古文書(コモンジョ)講座が開かれています。その講座の教材が天保2年(1830)のころコツ通りの飯盛旅籠屋主人伊勢屋庄八さんが故郷へ送った手紙でした。その時代のコツ通りの商店等の家並地図が足立区北千住の織畑家(現在は眼科医)の古文書より見ることが出来ます。伊勢屋はコツ通りの西側、天王様から数えて17~8軒目にあり隣りは自身番屋と示されています。

現在の小寺米店周辺同図中には飯盛旅籠が14軒(130軒中)あり伊勢屋は家持(自分の土地、家屋持ち)で間口が5間もあるなかなかの店構えでした。ほとんどの飯盛旅籠が地借(ジガリ)店借(タナガリ)でした。庄八さんの経営手腕がいかに上手であったか、またいかに金がもうかる商売であったかが教材の中から知ることができました。

なぜコツ通りにこのように飯盛旅籠が多かったかというと旅人が泊まることもあったでしょうが、飯盛女を目当てに近在の遊び野郎達が一夜の歓を味合おうと遊びにやってくる所でした。ちなみに幕末ごろの大工さん左官屋さん等の手間賃が日当400文で下男が年休3両、下女が2両2分ということを頭においてそのころの値段をみますと、太夫が75匁~2両、品川女郎が10匁、飯盛女が200文~500文、「よたか」が24文、ちなみに「かけそば」が16文、お銚子1本が12文でした。宿場の飯盛女といっても実際は遊女でしたから幕府は定められた岡場所(遊び場所)以外に遊女を置くことを禁じましたが待ちの貴重な財源でしたので、享保3年(1718)に飯盛旅籠1軒につき2名ととりきめましたが、洗濯女とか下働き女とかの名目で遊女を増していたようです。天保14年(1843)には戸数2370軒、人口10000人を数える程の賑わいでした。特に南千住は大橋をはさんで近在郷の特産品の集散地でしたので大変なにぎわいで色々な商売屋が立ち並び繁昌していたようです。

昔の古文書を読み人々の暮らしぶりを知り、現在の自分達の生活に役立つなにかをさぐりたいものです。

次回また仙成こと杉山六郎  2002年3月号38号