第12回 遊郭と映画撮影所

東京日日新聞の大正4年(1915)3月17日版に「南千住三亀桜火事で焼ける」と記事が出ていますが、当時コツ通りには飯盛旅籠(貸し座敷・ダルマ屋)が三亀桜のほかに辰巳屋・海老屋・岩本桜・佐賀桜・朝日桜など吉原をしのぐ程の勢いでした。

三亀桜の火事で家数31軒焼失し遊郭は所払いとなり、北千住へと移転してしまいました。

その後に戦前は、昭和20年(1945)3月10日の大空襲で焼けるまで大橋映画館・大一会館とコツ通りには娯楽施設として賑わっていました。

大橋館は、平成に変わるまであった甲田外科病院のところ(現在「佐藤メガネ」・「喫茶けい」)にありました。甲田先生の先代がオーナーとして経営されてたそうです。

南千住の柳通り(現在の城北信用金庫の並び野近眼科から伊藤工事会社)の一帯にマキノ系の映画撮影所があり、南千住周辺の風景を利用しながら映画を製作していたと私の母(明治38年(1905)生まれ)が、子役でほとんどの映画に出演していいたので、よく映画の話をしてくれました。

その後、白鬚橋を渡った左側(今の堤小学校の所)に全天候型の近代映画撮影所が完成し、南千住からそちらへ移ってしまいました。そこも、大正12年9月1日の関東大震災で崩壊して無くなってしまいました。

大橋館は戦後、今の日動火災会社のところで当時の区会議員(森たけし)さんが映画館をはじめ、テレビが普及するまで頑張っていました。

昭和30年1月1日には東京漫才発祥の地「栗友亭」が華々しく開場しました。漫才界のコロンビアトップ・ライトさんがデビューしたお笑いの場所です。

栗本さんが演芸場をお作りになった話などは次回にまわします。

コツ通りの周辺には、三ノ輪映画・キネマハウス・三ノ輪文映・南千住文化などの映画館があり、どれも繁盛していましたが、テレビの発達と共に消えて行ってしまいました。商店街の賑わいもだんだん無くなり、街の伝統文化も途切れてしまうのかと思うと淋しい反面、一生懸命頑張って取り戻そうと努力しています。

商店、商店街のあり方を色々考え進んでまいります。応援して下さい。 まいたうん30号(2001年7月20日発行)