第4回よいとまけ飯盛旅館

今日は前回の「よいとまけ」の話から入りますが、我が町コツ通り商店街も明治20年頃はまだ北側(大橋より)半分ほども家並がありませんでした。あとは水田で湿地です。家屋を建てるように盛土をして整地をしても沈下してしまいます。そこで杭を打つわけです。その一連の動作を「よいとまけ」と呼んでました。杭の短い場合には長い丸太棒三本を立て、三角すいを作ってその先端に「滑車」をつけロープを通します。そのロープの先に重い分銅(鉄で出来ているつり鐘形のおもし)をつけ、それを多勢の軽子(女性ばかり)で(20名~30名)【杭の長い場合は丸太でヤグラを組み地面に縦穴を掘ります】引きます。杭のところに立って分銅を杭のしんに当てる人(男性)をボーシンと云います。

そのボーシンの木槍歌(トビ職の労働歌)に合せてつなを引いたり離したりしながら杭を地中に埋めて行く作業なのです。

引き手の格好(姿・形)の手拭《てぬぐい》で姉さんかぶりで頭の髪を覆い、白の晒《さらし》の襦袢《じゅばん》を着て手甲に脚絆で赤の腰巻で前掛をしめる。白と赤のコントラストでそれはそれは綺麗なものでした。そういう訳でコツ通り商店街にも明治の終わりから大正の初めごろには木造の3階建ての飯盛旅籠《めしもりはたご》(飯盛女をおく)が軒をつらねて吉原の遊郭主から苦情が出るほどの繁盛ぶりだったそうです。一般には飯盛女をダルマと云ったそうです。(ダルマはよく転び、なお遊び賃が遊女より数段安かったそうです。)ところが火災を出して、ところ払いとなり、北千住へと移って行きました。

そのルーツは将軍の日光参拝、それから諸大名の参勤交代の制度に伴う交通量の増加で千住宿を中心として隆盛の途をたどりました。若い男性が多かったからでしょうか。敗戦後もその周辺には芸者屋があり、けん番もあり、料亭もありで大変なにぎわいでした。

次回には縁日の話にします。

一部祖父より伝承

すまいるたうん第  22  号〔 00年11月 〕