第24回千住大橋のつな引き

今年になって荒川ふるさと文化館では、千住大橋南詰から日光街道(国道四号線)を南下してコツ通り(都道一〇八号線)へ入って小塚原縄手(大フミキリ)までの、江戸末より明治・大正・昭和・平成の家並変遷地図を作制しようと専門員の野尻先生・亀川先生・弥永先生・加藤先生を先頭にしてコツ通りの向笠先輩と我々研究会員で努力しております。足立区教育委員会では昭和53(一九七八)年に旧日光道中千住宿家並変遷地図を完成させており、第二版の新家並地図もその後制作しております。

昔は一つ町として人々が一緒に仲よく仕事をし暮しを立てていたのですが、明治政府となり明治五(一九七二)年に宿駅制(徳川家光第三代将軍が武家諸法度を改定して寛永12(一六三五)年には外様大名、譜代大名にも参勤交代を命じて定められた制度)が廃止されて行政も足立区と荒川区とに分かれてしまったために、同じ千住宿として三百余年も同じ営みをしてきたのに千住宿の家並変遷地図の制作に参加出来ず残念に思っております。また一緒になってやっていきたいとがんばっております。

昔千住大橋の上で千住北と南に別れ「大つな引き」がにぎやかに行われたという故事にならって、現在「やっちゃば通り」と「コツ通り」とで大イベントとして「つな引き大会」を企画してます。毎年の行事として定着してくれれば大きな町起こしになると期待しております。ぜひその節にはぜひ、皆様のご参加を願いたいと希望しております。千住宿がいかに当時賑わっていたか明治時代の新聞を読んでもうかがい知れます。千住宿では毎日人足50余名それに伝馬50匹を割当られたとあります。これをみても宿泊施設・休憩所・食堂・人足寄場・伝馬のつなぎ場所など当時としては他の場所から見れば大変な繁華街であったことがうかがい知れます。今の新宿の歌舞伎町と同じです。      千住小唄に「千住女郎衆は「錨」か「綱」かのぼりくだりの舟とめる」とうたわれてます。ちなみに政府は明治四(一八七一)年にコツ通りに黴毒(ばいどく)病院を設立してます。                                               第 42号〔02年07月 〕