第141回 時の流れ

荒川区の名前が付けられたのは、明治22年(1889)市制町村制が公布され、江戸時代の小塚原村・中村村・橋場村・三ノ輪村・千束村・三河島村・下谷通新村・千住南組がまとめられ区内最初に南千住町と命名されました。そして都市経営の観点から南千住町・三河島町・尾久町・日暮里町が合併して荒川区が実現しました。

荒川区の北東区域の縁を8㎞に渡って流れている荒川の名称をいただき、荒川区となりました。さらに、昭和7年(1932)に新編入があり南千住町・三河島町・町屋町・尾久町・日暮里町で新荒川区としてスタートしました。

明治43年(1910)の荒川の大氾濫のため翌年明治44年(1911)から20年の歳月をかけて新しく千住5丁目先に作られた人工河川(北区の岩淵水門から東京湾への河口まで)を最初に命名されたのが荒川放水路です。その名称を易々と昭和40年に荒川と変えてしまい、自然に出来た川のごとく装い、元々の荒川(岩淵水門から河口まで)を隅田川と変えてしまいました。このことに腹が立ちます。何万人もの人々の苦難と犠牲の上で出来上がった川です。それを自然の川のように、大変な思いをした人々の苦労を忘れて、利便性だけのために名前を変えたことにすごく怒っています。

現在と違って、当時は行政の力は絶大で有無を言わせずにことを進めていました。私の義父の親の場合も、今の千住新橋の真下が農地でしたので、全ての土地を持って行かれました。その保証金を当時の日本一であった渡辺銀行に預金したら、その渡辺銀行が昭和2年(1922)の世界金融恐慌で破産してしまい、無一文となりました。荒川放水路の名前は残してもらいたかったです。

江戸時代からの地名がどんどん合理性の名のもとに変えられていき残念でなりません。

私ごとですが、六月は南千住の素盞雄神社の祭礼で忙しく飛び廻っているうちに、8年間シャベレない動けない状態で、人さまの温かい介護を受けておりました最愛の妻恵子が先日死去致しました。紙面をお借りして、生前に妻がお世話になりました全ての方々に御礼申し上げ報告させていただきます。心から愛の手を差しのべてくださいました皆さま、ありがとうございました。

仙成こと杉山六郎

すまいるたうん第253号平成25年 6月13日