第93回 遊女投込み寺と新吉原を歩く

南千住2丁目に「投込み寺」といわれている「浄閑寺」寛文4年(1664)があり「何を投込むのですか」とよく聞かれ「人間の死体です」と答えると「どのような人々ですか」と聞かれます。地元に住んでいても全然知らない人が多いとのことで投込まれた遊女達の生活の場所、明治通りを渡るとすぐそば日本堤の前の新吉原へ4月19日(日)にお客様9名をガイドしてきました。

三の輪橋→音無川→投込み寺→日本堤→山谷堀→衣紋坂→大門→ソープランド街へ→新吉原仲の町「吉原神社」→旧吉原病院→弁天池→車善七浅草溜→花園通り「おはぐろ堀」→地方橋→紙洗橋→浅草団左衛門の新町→今戸橋→桜橋のコースで二時間半歩きました。桜の花も終り新緑の若葉が目に美しく入ってきて気持ちの良い一日となりました。また、隅田川では早慶レガッタが行われていて多くの人出がありました。

徳川家康が江戸に入り町を作り始める慶長8年(1603)に江戸幕府が成立した当時の江戸は全国から武士・職人・商人・町人・その他の人達が集まり、男女の比は10対1くらいの割合でしたので、河岸辺りには「夜タカ」売春婦が多く出ていました。でも、武士達の武家社会では私娼と遊ぶことができませんでした。遊女屋の庄司甚右衛門が遊女達を一ヶ所に集めて営業することを幕府に願い出て元和3年(1617)に日本橋の海辺の「葦の茂っている原っぱ」に吉原の名称で15,000坪の広さと言われる元吉原を開きました。そのおかげで、武士達は昼間から女郎遊びに興じられるようになりました。江戸一番の風俗産業地となりました。

しかし、明暦3年(1657)の振袖火事で江戸は全滅してしまい、幕府は新しい都市作りを始めました。その結果、元吉原は浅草田圃の現在地に新吉原として深夜営業も認められてスタートし、江戸一番の風俗産業地となりました。新吉原誕生350年で花魁道中を行う予定が中止になりました。以前は、江戸町の松葉屋さんで花魁ショウや花魁道中のパレードも行われていたのですが、今は無く、松葉屋さんも一階に交番が入った高層マンションとなり、時代の流れを感じました。全員でソープランド街を歩き、料金も「早朝割引き」やウン千円からウン万円までと今でも「太夫」格から「ケコロ」までと格差があることを学び遣手ババアがいなくなり黒ずくめのイケメン兄さんが遣手ババアをやっいました。コツ通りも寛文元年(1661)千住宿に加宿され、女郎屋も飯盛旅籠として発展し、大正4年(1918)のコツの大火で三亀楼・岩本楼・海老屋・辰巳楼等34軒が焼失したと新聞記事にあり、大正10年(1921)法令にて全ての女郎屋が千住柳町に移転しなくなり、新吉原も昭和33年(1958)に廃業し淋しくなりましたが、その後全滅ではなく現在もトルコ風呂・ソープランドと名前を変え江戸町角町で盛んに営まれています。

浄閑寺の遊女の過去帳には16~21才の若い女性が死んでいったとかかれ供養塔にはおびただしい骨が納められています。北千住駅前の金蔵寺や不動院にも遊女の供養塔があり当時の女性の大変さがわかります。現在は良き時代になったと思います。街歩きは楽しいし過去から現在までの町の成立が理解でき歩くことは健康にも良いのでぜひ一緒に歩きましょう。    109号2009年6月14日