第73回 見に来てください。 JR南千住駅前西口を

平成19年3月より西口開発地区の引越しが始まり、5月には木造住宅「兵頭松田宅」より取壊しが行われ、その後に各種の重機が導入され鉄骨作りから鉄筋コンクリートの家屋へと移り、アッと言う間に6月末には黄色の外壁の森田動物病院だけ残され広々とした一面の原っぱとなりました森田動物病院は、三角形の頂点「元の居酒屋春のや」の跡地に全建物を移築し、開発ビル完成までそのままの形で営業を続けるそうです。

この辺りは昭和20年(1945)2月25日と3月10日の大空襲で焼け野原となり、同年10月バラックを建てた我が家(南千住5の39番地)から南千住駅が良く見えました。その後の復興で家々が建ち並び、我が家から駅が見えなくなってしまいました。あれから62年後の今また同じ場所から同じ風景が見られる「土手」際を大勢の人々が往来する様子は驚きの何ものでもない感覚に襲われています。

当時の私は荒川区立第二瑞光小の4年生(昭和20年8月15日)、敗戦後の夏から次兄と一緒になって「東京電気製造会社(大正9年(1920)創立、戦後土浦へ移転)」の焼け跡で露天商をやり、次兄のどこからか仕入れてきたカチンカチンの干し柿等が飛ぶように売れました。当時、駅前からコツ通りの大ガードまで両側に大勢のひとが少しの品物を並べて売り始めたのです。品物さえ揃えれば、右から左へと売れました。的屋「香具師」もいない、自由市場でした。

この西口開発地区(「三角地帯」と我々古い者は呼んでいます)で、私達と一緒になって露店をやっていたkさん・Iさん・Sさん・Oさん。皆さん、苦労なされて戦後62年地元で商売なされ生計を立ててこられた方々が住みなれた土地を離れることはさぞ不安ではないかと心配しています。私の父母・兄弟も皆亡くなり一人となった今、家の前の原っぱをみながら当時の事を毎日のように思い出しています。時の流れを世間の変化を、その時点の責任者として置かれた人々はどのように考え行動したのか、南千住の歴史を読み漁っています。町の人々の安定した暮らしができる起爆剤に西口ビルの開発がなってくれることを念じると共に我々も日夜良い町作りに努力して行かねばと思い行動を興しています。自分の住んでいる町を愛しましょう。愛して下さい。一人一人の思いやりです。よろしくお願い致します。

2007年7月13日            すまいるたうん40号