昨今、南千住駅を降り、千住大橋を渡って右側の足立魚市場の前の旧日光道を通って北千住に向かう街歩きの団体が数多くみえています。
今、荒川区では松尾芭蕉「おくのほそ道」ネットワークで芭蕉サミットの主催区になりましたので観光事業に力を入れて大いにお客様を呼び込もうと計画しています。
もともと南千住地域は、江戸時代徳川家康が制定した五つの火葬場の一つ小塚原の火葬場があり、江戸三大処刑場一つ小塚原の処刑場があったために町としての発展がおおはばに遅れてしまったのです。
五街道四宿の一つ千住宿は寛永2年(1625)に千住一丁目から五丁目まで宿場としてスタートしました。その後、掃部宿が加宿され、更に35年後に南千住の小塚原町と中村町が加宿され、千住宿八町が出来上がったのです。中心部は現在の芸術センターのところに役所があり、宿場の機能の中心でした。南千住は明治29年に鉄道が上野~土浦間に設置され、北千住にも南千住にも駅が出来たのですが、全然、南千住は利用客が少なく寂しいものでした。発展をみるのは明治の末から大正にかけてでした。その理由が火葬場と処刑場にあったのです。千住宿は日本橋を起点とする五街道のうち日光道と奥州道が通り、かなりの人々の通行を見たのです。が、夕暮れになると通行人は下谷道「現在の日光街道四号線」と通ってしまいました。それは何故でしょう。
気持ちが悪いからです。そこらじゅうに骨が散乱し野犬がウロウロする状態でした。江戸から明治に変わると川を利用しての大量の「物資の輸送」に利用と地価の安さ(低湿地帯で度々水浸しになるから安い)の理由で大工業地帯へと発展したのです。仕事が増え、労働者の安い住宅「トンネル長屋、軍艦長屋、千軒長屋、棟割長屋など」が出来て人口が増えました。明
治20年(1887)に火葬場が町屋斎場に移転し、処刑場は市ヶ谷へ移転しました。これらの理由で千住と南千住の発展の差は400年の開きがあるのです。
その上、行政の法律の違いが大きく変化させています。隅田川の千住大橋を境にして南千住は町奉行の支配地で、橋の北側は奥州八州代官の支配となっておりました。このため、経済文化全ての面で違いがあり、現在にも影響を及ぼしております。祭りに関しても千住は農村でしたので秋の祭り「収穫祭」で、南千住は町でしたので夏の祭りの疫病(流行病や伝染病)を防ぐための祭りです。
また、続きを書きます。色々なことで締め切りの時間となってしまいました。
夏のような気温が続きますが、急に気温が下がると体調を崩します。十分に気をつけて元気に生活して行きましょう。明るい笑いのある生活を願って