第139回 時の流れは速い

桜もパッと咲いてアッと言う間に葉桜となりました。春の陽気になって来たせいか、JR南千住駅から千住大橋を超えて千住に向かう街歩きの人達が増えてきました。

武蔵の国に徳川家康が江戸幕府を開いたのが1603年です。それから22年後に五街道が設定されました。その内の日光道・奥州道の二本が通る千住に宿場を設定されたのが1625年です。その後、35年経て利用客の増加に伴い、千住大橋の南詰の小塚原町、中村町が加宿されて千住宿は完成しました。

ところが、隅田川をはさんで北側の千住一丁目から五丁目、掃部宿、河原町、橋戸町は商人の町として大発展しました。しかし、南千住側は小塚原町・中村町とニ町だけで、その先に町ができず、何とか

街として発展をみるのは四百年後になってからです。その原因は、南千住側が人間の最終処分場だったためです。

散歩好きの方は街歩きをしてみてください。

コツ通りの中程に新柳湯という風呂屋があります。この通りの前側までしか明治時代は人が住んでいなかったのです。新柳湯の前を進んで行くと子育ての笹だんごで有名な西光寺が右側にあり、門前の道を左に曲がると柳通りに出ます。その向かい側の広大な土地が江戸の五三味の一つである小塚原火葬場があった処です。親子ガードに突き当たったら、土手沿いに左に進むと南千住駅前の大ガードに出ます。左側には両国回向院の分院である浄土宗の回向院【(解体新書)(吉田松蔭)(橋本左内)(吉展ちゃん地蔵)等ある】があります。

ガードをくぐると右側に浄土宗の延命寺があります。もともとは回向院が管理していたのですが、50年代に分離されて現在は延命寺浄土宗となっております。ここには4m余のお地蔵さまが立っています。

隅田川貨物の大フミキリを渡って都バスの車庫が切れるまでが明治20年代まであった品川の鈴が森刑場と並び称される小塚原刑場があったところです。

江戸の刑法では、人通りの多い街道で人の首を斬ったり、ハリツケにしたりしました。その斬った首を五つも六つも板でできたさらし台に並べて道行く人々に見せたのです。悪いことをするとこうなると見せて犯罪を減らそうとしたのです。

南千住は、このように火葬場があり、死体のお捨場や処刑場がありで、当時の人間の死ざまに対して仏教・儒教・道教・神道等いろいろな考えがありました。・

明治29年に上野から土浦まで鉄道が開通して駅前は整備されたのですが、人は住まない状態でした。人口が増えて町らしくなったのが大正の始めです。

制度の違い、経済力の違い、住民のその土地に永く住んでいることによる考え方の違いなど、川をはさんで北と南との違いを調べてみるといろいろなことが判り面白い町であると再認識をします。

外に出て歩くのに良い気候となってきました。時間を作って町を歩きましょう。体力作りに良いですよ。

すまいるたうん第247号平成25年4月13日