第136回 南千住の警察署の話

明けましておめでとうございます。健康で明るく新しい年を迎えることができたことは本当に素晴らしい宝だと思います。

さて、一月五日に警視庁南千住警察署慣例の平成25年武道始式が、荒川総合スポーツセンターで行われました。小学生から署員の方々の柔道や剣道の試合が行われ、私も式に参加して各々の演技を拝見致しました。毎回、手に汗が出るほど緊張し興奮してしまいました。

そのほかに講道館投の形や逮捕術の訓練、古流刀法知心流知心五行派の先生方の演武に時の経つのを忘れて夢中になって見てました。

署長様はじめ全署員の皆様が、日頃の鍛錬で心身を鍛え技能を磨いて我々南千住の住民が安全に日常生活を遅れるよう守ってくださることに、心から御礼申し上げ、感謝の念を持たねばと強く思いました。

江戸の警察機構を調べてみましたら、江戸中期の享保四年(1719)には町奉行は2名で、その下に与力が25名、同心が100名となっていました。江戸100万人都市を守るには少ないと思いますが、以上の役職は全て公式に認められていた人数で非公式には同心の下に時代劇によく出てくる岡っ引「目明し」を使い、その数は千名に達していました。

与力や同心は、組屋敷が現在の中央区八丁堀付近にあったため「八丁堀の旦那」と呼ばれていて、女湯の朝風呂に入れたそうです。そのため女風呂にも刀の刀掛けがありました。

町奉行は南町奉行と北町奉行となっていましたが、市街を今のように分けておらず、月番交代で新たな訴訟を受けていました。

南千住の場合は、明治12年(1879)3月6日に新政府のもと下谷金杉上野にあった警視庁第五方面五分署が千住(現 北千住)へ移転して、翌13年1月15日に明治2年(1869)に千住南組となった(現 南千住)の75番地に分署が出来ました。

そして、14年1月に名称が千住警察署となり、南千住・三河島・尾久がその管轄区となりました。同年6月には大橋の袂に巡査交番所が復活し、江戸時代の橋番と同じ役目を持ちました。ちなみに巡査の履物は草鞋でした。明治15年12月から、巡査の警棒が帯剣サーベルとなりました。

私が子どもの頃(昭和10年代)には、賭けベーゴマをやっている時にガチガチの音が聞こえてくると、タルとゴザを隠して逃げたものです。

当時は、交番へネズミを捕まえて持って行くと一匹一銭が貰えました。その一銭で芋アメが10個買えました。また、馬糞を集めて交番へ持っていったものですが、今だに馬糞の使い道は判りません。

南千住は、犯罪の少ない街で110番通報の少ない町と云われています。安心安全に暮らせる良い町です。

みんなで仲良く日ごろから隣り近所の人々と挨拶を交わしてお互いに顔を良く知っていれば犯罪は起りづらいと云われています。

今、町の中に防犯カメラを設置しようと計画されていますが、これも時代の流れかと思います。一人一人が、自分の住む町を愛する心が大切なことだと思っています。 安心安全な町を作って行きましょう。

また、一年間のご愛読を望みます。

すまいるたうん第238号平成25年 1月13日