第135回 北千住と南千住

七五三の行事も終り、神社の銀杏の木葉が黄金色に色づき、美しさが一段と増してきました。日の光を浴びるとその葉一枚一枚が更に光り輝き神々しく、自然の神秘に心打たれました。

そうこうしているうちに早12月も一週間過ぎ、あわただしい師走が近づいて来てしまいました。

先日、安藤昌益先生(江戸時代の思想家であり医者であった)の研究会からの依頼で関屋天満宮氷川神社の参集殿で講演をしてきました。調べてみると北千住と南千住は隣り町なのに、その違いは大きく、歴史の基盤が深く現代にも関わって来ているのが判ります。

千住(北千住)は経済商業地として1500年頃から発展しました。徳川幕府(1603)による宿場の制定(1625)により千住1丁目から5丁目が千住宿となり、奥州道日光道の初宿となりました。参勤交代制が各藩に義務付けられると、更なる発展をして経済力が増しました。掃部宿河原町、橋戸町が加宿されて、更に35年後には南千住の中村町、小塚原町が加わり、更に発展をしました。行政では千住は関八州郡代の支配下で、南千住は江戸町奉行の支配でした。

その違いが文化や日常生活や資本の蓄積の深さの違いとなりました。また、一番の大きな違いは人口密度です。

南千住は明治29年上野土浦間に鉄道が開通しましたが発展せず、周辺に大工場が建ち始めて、それに伴い従業員の増加により、やっと家々が建ち並び町が形作られていきました。

歴史的時間を比較すれば、千住は500年余り、南千住は100年余りになります。この時間差が問題でした。江戸時代から、南千住には火葬場があり、その他にお仕置き場(罪人を殺す所で、はりつけ・火あぶり・首切りや斬首のさらしなどが行われ、死体のお捨場としての役割も備えていた)に野犬や鳥など死体を食べに来る生き物が大変な数であったと旅日記に書き残されています。明治20年(1888)にお仕置き場が廃止されるまで20余万人が葬られたと言われています。

千住大橋を渡るとふた道になりますが、足立市場前の右側が旧日光街道で、左側が大正時代に出来た新道、現在の日光街道四号線です。旧道を真っすぐ進んで行くと掃部土手(現在の墨堤道路にぶつかり、左手前が源長寺(掃部土手を造り、掃部宿を発展させた石出掃部守の菩提寺)があり、右に曲がり100mほど進むと、左側に昭和40年代終り頃まで大変な賑わいがあったミリオン座商店街(店並の中程にあった洋画専門の映画館ミリオン座からその名前がついた)があります。そこをまっすぐに行くと千住駅に出ます。便利な地域です。千住は交通網が整備されており常磐線(明治29)東武鉄道(明治32)地下鉄日比谷線・つくばエクスプレス等南千住とは比べものにならない程の集客力があり、また大学の数が多いため若い男女が大勢集まってきて賑わいを見せています。

南千住も地域の良いところを見せて発展させていきたいです。

一年間、私の一口話にお付き合い下さいまして、ありがとうございました。             良いお年を

すまいるたうん第235号平成24年12月13日