第133回 砂糖が生んだ近代日本

やっと涼しくなった南千住の街を歩きました。コツ通り商店街には、少し前まで和菓子を売る店が五軒ありました。道路の中程の明治屋さん・駅前の伊勢屋さん・今川焼きのアチコチやさんと鯛焼きの浪花屋さん、天王様よりの兎月屋さんなど、全店無くなりました。

今、営業しているのは仲通り入口の菊本さんだけです。甘い和菓子を食べたいと思うと駅前のスーパー三徳か、コンビニのローソン、セブン、ファミリーマート等です。大工場で作られ、全て個性のない単一な味のものばかり、材料の味のうまさがなくなりました。

なぜ、こんなことを書くのかと言いますと、砂糖が日本の覇者を変えたからです。

日暮里の諏訪台にある経王寺の山門には、明治政府の官軍と江戸幕府の彰義隊が戦った上野戦争(戊辰戦争の一部で、鳥羽伏見戦争から始まり、上野・長岡・会津・函館戦争で終結)でできた鉄砲の弾の跡が9ヶ所位あります。

通新(現在の日光街道4号線)脇にある円通寺(791年創建)には上野の寛永寺(寛永2年1625年創建)から贈られた黒門(上野の山の正面にあった門)があります。この黒門は、上野戦争の激戦場所に立っていたため無数の鉄砲の穴の跡があります。穴は大小あり、貫通しているものもあって、官軍の火器の強さを見て理解できます。

半日で戦いが終ったのは、鉄砲が新式と旧式の違いの差によるものです。官軍は最新の連発銃で機関銃まで装備されていたのに対して幕軍は旧式の先ごめ銃でした。

新政府軍の主役は薩摩藩でありました。幕府の第十一代将軍家斉(在職50年)は幕府の財産を食いつぶした後、財政の建て直しをはかりました。天保12年(1841)に老中になった水野忠邦が行った天保の改革の時に、薩摩藩は外国貿易を活発に行い、特に力を入れていた砂糖を江戸や大阪で大量に売ることで藩の財政を建て直し、更に儲けた金で近代軍備を整えていきました。その近代軍備の増強が江戸幕府を倒し、明治新政府を立ち上げる元になったのです。

戦国時代は、中国からの輸入品の唐三温と呼ばれた砂糖は一部の人々のものであって、その原料のサトウキビは限られた地域で作られていました。しかし、八代将軍吉宗の時代に、西南諸島、九州・四国・山陽・紀伊などで国産砂糖「和三温」の増産に励み栽培地域広げました。薩摩藩は儲けた金で西洋の武器を買い入れて軍隊の近代化を進め、その結果、江戸幕府を滅亡させました。

黒門の弾痕跡を見に行ってください。砂糖が国を変えたのがよく判ると思います。

今、南千住駅周辺では古くから和菓子屋を営業しているのは、仲通りの入口の菊本・ジョイフル三ノ輪の相州屋・立花屋・西光寺山門前の相州屋ぐらいになってしまい、個性豊かな砂糖のうまさを引き出し製品を作る店が少なくなりました。甘党の私には寂しいことです。

延命寺の延命地蔵尊が再興されました。

11月23日に開眼式を行います。皆さま、参拝に来てください。ありがとうございました。

すまいるたうん第229号平成24年 10月13日