第128回 祖先の記念碑

足立区と荒川区の共同事業として観光マップ「千住散策マップ」が発行されて以来、南千住から北千住へと他地域から街歩きする方が増えて来ました。三月3回四月3回と千住宿をご案内することになり、皆様は大変喜んで帰途につかれました。大勢の人にこの町に来ていただき、少しでも街の活性に役に立てばと頑張っております。お一人でも申し込んでくだされば、ご案内致しますので、お電話下さい。

南千住駅前から出発し、コツ通り「小塚原町中村町」を過ぎ、隅田川にかかる千住大橋(昭和2年の鉄製)を渡ると、すぐ橋戸町とその先の左が新道で右が旧道の二股道(大正時代は大きな沼地があり足立市場前には新開橋がかかっていて、それを渡って行きました。

やっちゃ場、河原町(昔は隅田川の河原である)を過ぎると、掃部土手(墨堤通り)があります。大橋を完成(1594)させた伊奈家と協力して完成させた土木建築の大家である石出掃部介吉胤が隅田川の洪水を防ぎ農地を作るために築いた土手です。掃部宿といわれていましたが、現在は「千住仲町」を過ぎると熊谷土手(千住一丁目の大フミキリのある道路)です。この角の右側に一里塚、左側に高札場があります。道を渡るといよいよ初期の千住宿(一丁目から五丁目まで)へ入っていきます。すぐ左が宿場の役場・問屋場・貫目改所、右が馬維場・飛脚屋等がありました。明治22年の町制で役場になり、昭和6年の区制により足立区役所になり、現在は東京芸術センターになっています。その横道が慈眼寺、不動院の山道で当時の一級国道(日光道)に面しており、山道のある寺は格が高かったのです。突き当たりが慈眼寺で、その手前右側が遊女の供養搭と上野戦争の彰義隊の供養搭がありまた、明治天皇が二度も泊まられた本陣の料亭旅籠中田屋の墓がある不動院です。

その先の慈眼寺の山門(山門額は掃部宿で有名な有名な橋本家(安藤昌益の書籍を保存してくれた家)の橋本盧山の筆をくぐり左に行くと私の一族と妻(恵子)の一族の大きな記念碑が建っています。それは大正12年(1923)4月に建てた南北消防記念碑です。

当時、消防組駐屯所のあった慈眼寺の境内にそれまで民間の消防水防の組織であった南組と北組を近代消防に移すに当り殉職者や組員の名前を刻み建てられました。明治16年(1889)南北消防組の組頭であり発願者であった杉山金七・金八・金一・弥之衛門・仙蔵など祖父や父の名前が刻まれてあります。この記念碑を製作した三代にわたる石工が妻の祖父であり一族で荒井利喜吉・五郎蔵・晴久と名前が記されています。三点の石碑がありますので、お立ち寄りの節にはぜひご覧下さい。

町火消であった杉山家は、江戸町奉行大岡忠相が享保3年(1718)に設置した四十八組のうちの「ぬ組」の組頭を代々つとめた家を思い出しました。

それと千住大橋きわには川並「筏師」の常宿もあり、隅田川の洪水の時には、橋の水防に協力してましたので、杉山家と荒井家はいつも仲良くつき合っていたようです。

時代と共に生活も変り、杉山家は南千住5丁目で食堂を営み、荒井家は千住4丁目で八百倉の屋号で青果業を営んでおります。時が過ぎ移り行くことで私達の身辺のことが埋没し消え去り淋しい限りです。

仙成こと杉山六郎    すまいるたうん第214号平成24年5月13日