第119回 その町の歴史を知ろう

先日、暑い盛りに足立区の方々と千住宿の名所旧跡を訪ね歩いてきました。

大川(隅田川)をはさんで千住「北千住」も小塚原「南千住」も昔から街道すじで大勢の旅人の憩いの場所として繁盛してきた商人の町であり、職人の町でした。

川をはさんで北の千住側は、農村地帯でしたから、橋のたもとの河原に野菜や川魚や米・マキ・炭や雑貨類(ワラジ・菅笠・カマ・スキ等の農器具・古着など人々が生活するために必要な品物を道行く人々に販売していたのが「やっちゃ場」で河原町を中心に街道沿いに軒を並べて大変な賑わいを見せていました。

昭和16年に東京都足立分場(農産物と水産物の取引市場)が設立されるまでは、すごい発展をして大商人を生み出してきました。千住一丁目から五丁目までは宿場町として発展し、この地域からも大商人が多々出ています。

よく北千住と言われていますが、駅名だけでして千住八ヵ町と言われていたのは、人工河川の荒川放水路以南です。江戸の名医である名倉医院が五丁目、紙問屋の横山家・絵馬家の吉田家が四丁目にあり、中田屋本陣、見番が三丁目、JR北千住駅前ミドリ屋が二丁目、元足立区役所(現在の芸術センター)は貫目改所(江戸の宿場の役所)が一丁目にありました。最初の宿場である一丁目から五丁目までが1624年に成立し、その後1658年に掃部宿・河原町が加わり、大橋を渡って小塚原町・中村町(現南千住)が1660年に加わって八ヵ町となり千住宿場町として明治から大正にかけて営まわれておりました。

橋をはさんで北は生鮮食品を取扱い、南は木材を取り扱う木材商19店がありました。現在もある橋の角の角吉商店「吉田家」は江戸時代からの材木商です。吉田家の前には、大橋を架ける時に普請奉行の伊奈忠次が成就を祈願した熊野神社があります。

なぜ、南側に材木商が多いかというと、重量のある材木を積んで橋を渡れなかったからです。

当時、北は地方「田舎」と言われ南は町方と言われて、行政の支配も違っていたのです。千住大橋一帯は、物資の一大集散地で水運「川と海」を使って入間川からは川越夜舟で農産物が運ばれ、秩父からは木材や石・絹が運ばれ、海からは熊野の木材・海産物が運ばれて、大変な財を成した商人達が沢山出て文化芸術が発展していきました。時が流れ生活様式が変化していくと古い物がどんどん無くなって新しい物へと移ってしまいます。新しい物は古い物を基盤として発達しているのだから良い物は大切に残して貰いたいです。

町を歩き、神社仏閣や道端に多くの子育て地蔵尊を見かけます。百年前「明治・大正時代」は医療の進歩した現在と比べ、子ども達の死亡率が高くただ神仏に祈るだけが救いの道でした。

しかし、現代ではこんな豊かな時代に、やっと神様から授かった子どもをやたらと虐待して殺してしまう親が多くなり考えさせられます。

私の子どもの頃、昭和10年代は生活物資が無くて貧しかったのですが、親や大人達は子ども達を可愛がり、誰かれ無く善悪を教え、悪いことをすれば叱りつけたものです。しかし。今はすごく変わってきたように老人には思われます。

仙成こと杉山六郎弟187号平成23年9月13日