第106回 五街道と飛脚

先日、ある会合で江戸時代の日光街道は現在の四号線であると言った人が、30人中20人おりました。若い年齢の方々は今の道路が昔からの道であると思っているようです。今、住んでいる土地の歴史を少しでも学んでいただきたい。

私の子供の頃は、大人達の話の中に神話や土地の古い話や恐い話等よく聞かされたものです。現在は、あまり親との会話時間もなくおじいちゃんやおばあちゃんも一緒に住んでいないし、ゆっくりと話す機会もあまりなく土地の昔話等聞かされて来ないで大人になったから地域に対して愛着が起らないのですね。 神話の中の建国の物語や土地の伝承話等子供に聞かせたら面白い話が沢山あります。機会があれば、自分の親達やご祖先の昔話や自分の体験談など子供に話してあげて下さい。

現在、私の妻が葛西の老人介護施設にお世話になっており、二、三日ごとに南千住ー茅場町ー葛西ーバスと片道一時間半のコースで訪ねてますが、電車の中で十人中七人が携帯電話で何かやっています。物事を伝えることがこんなに便利になったのにはただ驚くばかりです。また、自分自身も使用していますが、使い過ぎて利用料金を支払う時に驚いて頭が痛くなります。

さて、今から百五十年前頃の通信方法としては飛脚が全国を走り回っていました。この制度は戦国時代から発達し完全な整備が始まったのが徳川家康の代からで鎌倉時代に半分位システム化されていたのを江戸幕府が完成させました。

その拠点が宿場でここでは千住宿です。範囲は南千住・中村町・小塚原町と千住一

~五丁目と掃部宿・河原町・橋戸町からなり飛脚の中継地は千住一丁目にありました。問屋場と言われ、人馬を常に用意して置き飛脚人足が二人一組で走るか人足一人と馬一頭で走るかの方法が用意されていました。江戸から大阪までは一般飛脚だと25日かかったとされていましたが、御用飛脚「幕府の大事な御用の場合には昼夜、夜間でも関所を通り抜けられて約550㎞を3日間で届けられたと言われています。これより早いのが「馬早飛脚」でしたが交通事故が多く幕府は禁止しました。色々工夫されて継飛脚・大名飛脚・相場飛脚・定飛脚・三度飛脚・順番飛脚・町飛脚など出来て幕末ごろには北海道の最北の地から九州の南の端の離島まで全国組織となって明治の郵政事業へと引き継がれ発展しました。

江戸時代の日光街道は日本橋から室町・浅草橋・蔵前・浅草花川戸山谷・コツ通り千住大橋を渡って北千住へ。因みに北千住の名称を使っているのは駅だけで地域の地番は全て「千住」だけです。現在の日光街道四号線は江戸時代は下谷道と言われていました。

万治二年(1659)に大目付兼道中奉行が設置され四宿五街道が公用道路と定められました。奥州街道・日光街道が千住宿、東海道が品川宿、中山道が板橋宿、甲州街道が内藤新宿の五街道が幕府管轄となったのです。

暑さが厳しいですが、皆様体調を崩さぬよう元気に夏を楽しみましょう。

仙成こと杉山六郎    すまいるたうん第148号

平成22年7月13日