第104回 汐入大根

先日、家の前でゴミの分別をしていたらゴミ袋の中に、まだ食べられる食品「食パン・ビン詰・パック食品・味噌・野菜等」が入っていて私は、びっくりしてしまいました。戦前(1930)年代から戦後(1960)年代の食糧不足を体験した人間からみたら、これで良いのかと考え込んでしまいました。

大根は三分の一程で捨てられていました。生産者のご苦労を思ったら「何でこんなことしやがる」と怒りが込み上げてきました。必ず近い将来食糧不足がやってきます。食糧の最大輸出国の一つである中国13億余の人々の生活水準が現在の日本のようになり食べ物を無駄に使うようになったら、輸出できず日本がいくら金を積んでも輸出してくれません。日本の食糧生産自給率は40%弱と低いものです。若い人達も含めて皆で無駄の無い食生活を考え実践していかないと大変な食糧不足の時が来ます。

さて、大根と言えば、南千住には江戸から明治時代にかけて汐入大根と言う超有名ブランドの大根が生産されていました。

荒川区の五地区「南千住・三河島(荒川)・町屋・尾久・日暮里」のうち隅田川辺りの四地区(道灌山の日暮里は除く)は、砂混じりの土地が大根の育成に適していて白くて味の良い大根が取れ、多くの料亭等で引っ張りだこでした。明治22年(1889)に町制が引かれるまでの地名区分は上尾久村・下尾久村・町屋村・三河島村・新堀村・谷中本村・金杉村・千住宿南組・橋場地方汐入村となっていて当時は農業が盛んに行われていたことが「東京府資料」に見られます。

上尾久村の「クワイ」・谷中本村の「生姜」三河島村の「三河島菜」「枝豆」・金杉村の「ネギ」など江戸の有名ブランド野菜が生産されていたのです。野菜が生産農家から消費者へすぐ届くのではなく魚も野菜も大部分は市場を通して届けられる仕組みに江戸の昔からなっていて幕府御用市場があって野菜だと神田・駒込・千住の三大市場とその他中小市場で取引されていました。三ノ輪村にも野菜市場があり、土物と言われる里芋・クワイ・大根が主に扱われていました。しかし、千住市場が隆盛を極めていた為衰退してしまいました。

浅草の「酉の市」で有名な鷲神社では昔からゆでた親イモを笹竹に四・五個位刺し、縁起物「この芋を食べると病気せず、丈夫で元気になる」と言われ買って帰って来たものです。これも三ノ輪市場に関係があったのではと思われます。

魚では日本橋魚市場が、江戸時代からありましたが、関東大震災(大正12年(1923))で崩壊した為、南千住汐入へ大正12年11月に汐入魚市場を設置し営業を始めました。しかし、築地市場が新設された為、一年半の営業で終了し移転し、一部は千住牧の原(現在の西新井端土手下)へ移り、その後昭和16年(1941)千住大橋際の橋戸町へ東京中央足立分場が新設され「やっちゃ場」と並行して魚も野菜も取り扱われて来ました。しかし、戦後取引が増加し敷地が手狭となった為、足立区の舎人地区へ野菜部門が移転し橋戸の足立分場は魚類だけの取り扱えと変って行きました。

私達は「食物を粗末にすると目が潰れる」と親から言われ御飯つぶ一つでも大切に食べたのです。仙成こと杉山六郎すまいるたうん142号   平成22年5月13日