第9回 コツ通りと交通機関
昔も今もいかに交通機関が人々の暮らしの中に重要であり、交通と経済との関係が密接であるかが、コツ通りで見てもそれがよくわかります。
鎌倉時代(1200年)頃は大量の物資を流通させる手段は船による水運が主力でした。江戸時代も幕府は、多くの掘割(川を作る)を広げ、生産地から消費地へと運びました。江戸時代(1594年)に大橋が架けられまでは北千住や向島へ行くのは全て船でした。
昭和41年(1966)まであった「汐入の渡し」は、汐入が近代工業地帯となり、ますます対岸からの人々を運び隆盛を極めました。
隅田川にあった渡しは8ヶ所で橋場・汐入・水神・お茶屋・一本松・新・熊野・小台とあり、汐入の渡しが一番最後まで営業していました。
荒川区は明治16年(1883)上野~熊野間(現在の高崎線)が開通し、それにより隅田川貨物駅が明治26年、南千住駅が明治28年に開通し一挙に近代工業化の物流の拠点としてめざましい発展を成し、それに伴って駅を中心として
コツ通りも商店が広がっていきました。
まず、明治20年には第ニ瑞光小周辺にあった火葬寺の移転、明治21年には首切り場の廃止等があり、それらがなくなることにより土地整備が進み、大工場へ勤める人々が移り住むようになり、商売も繁盛して行きました。
ちなみに明治44年の南千住駅の乗降客は一日702人でした。現在は2万人強だそうです。南千住の町も江戸幕府の崩壊により経済活動が衰退し、人々の暮らしが貧しくなりました。どうしたら生活が良くなるかと土地の有志家が考え、当時、王子に建設される予定だった製絨所(明治10年創立)を政府の当事者達(井上省三、大橋一)と会見して南千住の地主達を説得し、王子の土地が1反200円であったのを南千住は1反30円という安い値段で製絨所の誘致に成功し、一大工業地帯の先駆者となり、南千住の発展をもたらしました。
これ以降、次から次と近代産業が立ち上がり、人口増加と共にコツ通り商店街にも大いなる発展と利益をもたらしてくれました。
まいたうん27号(2001年4月20日発行)