第45回 コツ通り箇労痢(ころり)と火葬場

前回、解体新書(1771年)のことを書きましたが、日本では17世紀半ば頃には、西洋医学の価値を認めて多くの漢方医が西洋医学を学ぼうとしましたが、幕府漢方医の団体組織医学館の反対圧力で、蘭学は前進しませんでした。

その圧力を撥ね返したのが、英国のジェンナーの発見した牛痘接種法です。天然痘に目立った効果があることがわかり、やっと安政5年(1858)5月、神田お玉ヶ池に種痘所が幕府の許可を受け設立され、蘭方禁止令解除となり、今日の発展をみることになりました。
「安政5年コツカッパラの火葬場てんてこまい」と古文書に記され、同年6月頃「駿河の辺からはやり8月にがコロリ大流行 この病で終われるもの三萬余」とあり、「棺桶がまにあわず酒樽でまにあわせ火葬場に運ぶも荼毘(だび)がまにあわず(こも)にまいて船で品川沖に沈めて水葬にした」と記されています。

この(を払うため人々は神輿や獅頭を町に繰り出したり、豆まきしたり、「しめなわ」を引いたり、「八つ手の葉」を軒につるしたり、家々では夜になるとかがり火を焚いたりして邪気を払ったそうです。

コツ通り周辺でも正徳6年(1716)・文正2年(1819)5年・安政5年・明治10年(1877)12年・15年・45年に大流行しています。大正4年(1916)ペストが大流行、大正5年発疹チフス、その後は上水道や下水道の整備、衛生知識の普及や医学の発展進歩、薬の開発等が進み、恐い病気ではなくなりました。とても素晴らしいことです。『生きていること』を大切に考えたいものです。

文政13年(1830)の夏から秋にかけて、石塔がいつのまにか磨かれて綺麗になっているという「石塔磨」事件がコツ通りの火葬場でもあったそうです。明治20年(1887)に火葬場が廃止になり、22年には宅地として売却されました。

その代金120円が南千住で最初の公立である瑞光小学校の建設運用資金となったことは、南千住町誌に記載されており、当時、大勢の人達が教育の大切さを認識し、お金を出し合い、大きな努力で学校を立ち上げ、運営してきたことを忘れてはなりません。

まいたうん64号(2004年5月20日発行)