第26回 W街区とTMO
明治21年(1880)3月18日の新聞に「つい最近まで啾々たる腥風、行人の鼻を打ちし不浄の地も、清浄潔除して今は見ちがえるようになった。小塚原の旧刑場跡へいよいよ昨日から数百株の桜樹を植込みにかかり由」と出ているように、現在の私の住んでいる所は百二十年程前には日が暮れれば人は通らなくなり、あたり一面死臭がただよい、昼間は現在の駅前のあたり火葬場から死体を焼く煙がむくむく立ちのぼり、夏は南風に乗って北千住一帯までにおったそうです。明治20年(1879)8月7日同年7月1日より31日までの一ヶ月間で処理した死者は591名と報じています。このような場所が廃止となり明治29年(1888)12月25日に南千住駅の開通を見て一挙に駅前周辺が開けてきてコツ通り商店街が発展していったのですが、昭和40年(1965)に入って大工場の地方への移転が始まり、だんだんと社会の流通システムの変化によりさびれゆく下町商店街となってきました。これではいけないと地元商店街と区で、3年前より何度も会議を開き、南千住地区の発展のため「あらかわTMO」の名称の会社を起し、今月11日仲通り商店街中程に本社事務所を開設しました。町起しの起点としておおいに活用して下さい。これと平行して南千住駅東側の旧国鉄用地跡(通称W1街区・W2街区・W3街区)1階区は都市基盤整備公団による39階高層ビル、2街区は三井不動産株式会社による集合商業施設(2階建で注射台数は300台店舗面積7410㎡でスーパーマーケット・ファション・雑貨・飲食店種々サービスが入ります)3街区は株式会社ヒューネットによるスポーツクラブ(温水プールもあり)健康全般の施設、サービス部門・飲食部門が店舗面積6450㎡の広さで(心と体のリフレッシュ)をめざします。集客能力は一日スポーツ部門が五千人で商業部門が一万~二万人と言うことです。コツ通り商店街もこの集客力に便乗して各商店が個性ある販売商品を開発持参し、お客さまの流れをコツ通りへ向けさせなければなりません。死にものぐるいでがんばろう! 仙成こと杉山六郎 第 45号〔02年10月 〕