第23回 南千住町の教育への熱意
六月に入るとすぐ、天王さま(素盞雄神社)の大祭が始まりました。三日の大祭式から七日の御霊入れ・八日(土)九日(日)の本社神輿の渡御と盛大に行われ、南千住の町は祭り一色となり、大人も小人も楽しみました。そのため各町内で使われるお金が町に落とされ、経済効果はおおいに高まったと思われます。
私事ですが、コツ通りの上町という祭礼組織の内の小神輿の責任者として、八日九日の二日間述べ人数二百名余の小学生を担当しましたが、気になることが二・三ありました。一つ目は各家々からお菓子などいただいても「ありがとう」の挨拶をしない子の多いこと。二つ目は自分でできることでもすぐ「おかあさん」と親に頼る子が多いこと。三つ目は親自身が自分の子供だけという自己中心で周りに気配りをしないことなど気になりました。社会の仕組みが変わり生活の仕方も変化しているのでしょうが、人間が生きていくのに一人では生きられず、人々のかかわりの中で暮していくのですから、挨拶・人に迷惑をかけない・周りの人達に思いやりをもつ・この位のことはやってもらいたいですね。
前回の公立学校を南千住に作って大勢の子供達がお金がなくても教育が受けられるようにしようと考え、実行した明治時代の人の思い入れはすごいものです。古い記録にも「南千住町の教育は日に月に隆成の域に達し全国各地より参観に来た、今や天下の注目を惹くに至れり」明治13年(一八八〇)当時公立学校を創立する費用を町に賦課しては民力がおとろえ、従って学校維持にも困難を招くと考え土地の有志の寄付金でまかなおうと、寄付金を積み立て学資金を作り以って後年の永続を謀ろうとしました。当時の教員の給料が月額三圓です。個人の最高額は金百五拾円松平頼聰・金百円川村治兵衛・吉田萬右衛門・渡辺太三郎・田中午太・石山義完・コツ通りの飯塚薬局の飯塚勝三郎さんが金七拾五円です。ちなみに私の祖父は三円でした。
第 41号 〔02年06月 〕