明けましておめでとうございます。
21世紀に入った今から百年前(1900年明治23年)頃の南千住のコツ通り周辺に思いをはせてみたいと思います。
明治13年(1880)の測図では人家は今の渡辺文具店ぐらいまででした。大正8年(1919)の測図を見ると今の泪橋交差点まで人家が並び広がっています。
この人口の膨張は日本の近代産業の発展とおおいに関係がありました。
南千住は古代より交通の要衛地であったがため陸運と水運が発達し
明治11年船田ボタン工場
12年 千住製絨(ラシャ場)
19年 東京板紙(株)
21年 日本石油
26年 東京瓦斯千住製造所
29年 南千住駅隅田川貨物駅
38年 東京電灯千住発電所
39年 東京毛織物(株)・磐城採炭(株)
40年 東京電気機械(株)千住木工場・大和田玩具
42年 東京紡績(株)・大日鉄工場・田辺製薬・大日本紡績(株)
- 東京レーザー・東京合皮・東京製皮etc その人々の日常生活必需品をコツ通り商店街が一手に引き受けていたのですから、その発展ぶりと繁盛ぶりはすごかったです。 敗戦(1945年)の3月10日の大空襲により一挙に全滅、その一ヵ月後には駅前の東京電機製作所の焼け跡でたくましく露店を開き始めました。 昭和30年(1955)代~40年(1965)代に最盛期を迎え、その後、大型スーパーとコンビニにより元気が無くなって来つつあります。昔あった商売で意味不明の商売を少し説明します。 その時代の流れに合わせながら皆さんたくましく生活し商売を続けています。 まいたうん24号(2001年1月20日発行)
とりとめのない話で終わります。
半世紀過ぎ商売の種類も大きく変りました。
蓄音器屋(レコード・CD・カセット)・下駄屋(ゲタ〔木製〕)・草履屋〔ワラ製〕・豆屋〔大豆・ウズラ豆・エンドウ豆etcを煮て、朝、その品を車(大八車(木製)で売り歩く・かもじ屋(日本髪一式)・乾物屋(干した海産物)・芋屋(焼き芋・大学芋・ふかし芋)・小間物屋(着物附属用品)・佃煮屋(小魚・豆類の煮物)・足袋屋(着物用タビ)・しじみ屋(貝類)・氷屋(大きな氷を切って売る)・仏具屋(仏・神などの祭用品)・瀬戸物屋(セトモノ・ガラス類)・洋食屋(レストラン)・農機屋(農業用品)・縄屋(ワラ製品類)・撞球場(ビリヤード)・カフェ(ホステス有り)・ミルクホール(バーテンダーのみ)
でも、商店主一同毎日頑張って、知恵を出し合い賑わいのある商店街にと努力しております。ご支援下さい。
コツ通りでも焼け跡を片付けてバラック小屋を建て営業を再開しました。戦前の商店街の名称は「南千住実業会」、戦後は「興隆会(こうりゅうかい)」と言い、現在は「コツ通り商店街振興組合」といっています。
ジョイフル三ノ輪は大正の末に作られた町並みで、当時はコツ通り商店街と下谷通新の商店街があったくらいです。多くの商店が2~3人の従業員を抱え大いに稼ぎました。
数え上げたらまだまだあり、中小規模の工場を入れたら大変な大工業地帯でありました。そこに従事する人々も大変な数です。